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星亨【ほしとおる】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

星亨
ほしとおる
[生]嘉永3(1850).4.8. 江戸
[没]1901.6.21. 東京
明治期の政治家。左官職佃屋徳兵衛の子に生まれ,星家の養子となる。英学を学び,明治2 (1869) 年神奈川県三等訳官となった。知事陸奥宗光知遇を受け,同5年横浜税関長。のちイギリスに留学,法廷弁護士の資格を得て帰国し,代言人となり,のち弁護士となった。 1881年自由党結成後まもなく入党,『自由新聞』の経営に参加。また,新聞『自由之灯』を発行,論客として活躍した。その間官吏侮辱罪などで入獄2回,政府の弾圧を受けながら 1887年の在野各政党の大同団結運動を推進した。第2回衆議院議員総選挙以後代議士に当選,1892年衆議院議長となった。しかし,1893年後藤象二郎とともに取引所設置をめぐる疑獄事件に連座して除名された。このとき議長解任の決議を数度にわたり無視,登院したことは著名。日清戦争後は大韓民国の法律顧問となり,陸奥の斡旋により 1896年駐米公使となった。 1898年大隈重信,板垣退助の憲政党内閣 (隈板内閣 ) ができると帰国して憲政党を分裂させ,1900年伊藤博文と結んで立憲政友会を結成し,同年 10月第4次伊藤内閣の逓信大臣となったが,東京市会疑獄事件の中心人物とみられて辞任。翌 1901年6月,元東京市四谷区学務委員伊庭想太郎によって刺殺された。非常な読書家で,蔵書1万冊余は死後,慶應義塾図書館に寄贈され,星文庫となった。

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デジタル大辞泉

ほし‐とおる〔‐とほる〕【星亨】
[1850~1901]政治家。江戸の生まれ。自由党に入党。官吏侮辱罪出版条例違反などの罪で入獄。衆議院議長となったが、反対派の策動で除名。のち、立憲政友会の結成に参加し、第四次伊藤内閣の逓相。東京市会議長在職中に暗殺された。
中村吉蔵の戯曲。を題材とする歴史劇。昭和2年(1927)、新橋演舞場にて新国劇が初演。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

星亨 ほし-とおる
1850-1901 明治時代の政治家。
嘉永(かえい)3年4月14日生まれ。イギリスに留学,同国の法廷弁護士の資格をとる。帰国後自由党にはいり活躍,舌禍事件などで2度入獄。明治25年衆議院議員(当選4回)。衆議院議長,駐米公使をつとめ,33年政友会を創立。第4次伊藤内閣の逓信相。34年東京市会議長となるが,同年6月21日伊庭(いば)想太郎に刺殺された。52歳。江戸出身。本姓は佃屋。

出典:講談社
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江戸・東京人物辞典

星亨
1850〜1901(嘉永3年〜明治34年)【政治家】貧困から身を起こして代議士に。 日本型金権政治の元祖ともなった。明治期の政党政治家。江戸の左官屋に生まれる。維新後に横浜税関長となり、のち渡英して弁護士資格を取得。1892年(明治25)第2回総選挙に当選して衆議院議長となった。自由党と第二次伊藤内閣の連携、日清戦後の地租増徴など、卓越した政治手腕を発揮した。収賄容疑で議員除名処分を受けるなど強引な金銭調達や、地方利益誘導による政党支持獲得など、日本型政党政治の原型を作った。1901年、伊庭想太郎に刺殺された。

出典:財団法人まちみらい千代田
監修:江戸東京博物館 都市歴史研究室長 北原 進
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世界大百科事典 第2版

ほしとおる【星亨】
1850‐1901(嘉永3‐明治34)
明治期の政治家。江戸に左官の子として生まれ,継父星泰順の下で横浜に出て貧窮のうちに英学を修め,各地で英語教師を務める。この間に,何礼之(がのりゆき)や陸奥宗光の知遇を受け,またブラックストン《英国法律全書》の翻訳を行う。1874年横浜税関長となるが半年で免職。同年10月法律研究のためイギリスに留学し,日本人として最初のバリスター・アット・ローbarrister at lawを取得した(1877)。帰国後通常代言人(弁護士)となり,一財産を築くとともに代言人の地位向上のため努力した。

出典:株式会社平凡社
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大辞林 第三版

ほしとおる【星亨】
1850~1901) 政治家。東京の人。自由党幹部。舌禍事件、出版条例違反で二度入獄。のち衆議院議長。政友会結成に参加し、第四次伊藤内閣の逓相となるが、東京市の疑獄事件で辞職。その後も政友会院内総務として力をふるったが、伊庭想太郎に暗殺された。

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日本大百科全書(ニッポニカ)

星亨
ほしとおる
(1850―1901)
明治期の弁護士、政党政治家。嘉永(かえい)3年4月14日、左官職人佃屋(つくだや)徳兵衛の長男として江戸に生まれる。父出奔後、母が医師星泰順と再婚、星姓を名のる。維新後陸奥宗光(むつむねみつ)に認められて政府に登用される。1874年(明治7)横浜税関長時代、イギリス領事館との文書中に「女帝」と「女王陛下」の訳語をめぐる事件でイギリス公使パークスと争い解任される。同年政府命でイギリス留学、日本人初のバリスター・アット・ロー(イギリス法廷弁護士)を取得。帰国後、司法省付属代言人(後の弁護士)第一号となる。1882年自由党に入党、福島事件の河野広中(こうのひろなか)を弁護する。1884年官吏侮辱罪で服役中、自由党解党にあい獄中から反対。同年出獄後、5月『自由燈(じゆうのともしび)』創刊。1887年大阪事件公判で大井憲太郎(おおいけんたろう)を弁護し、同年10月三大事件建白運動を推進。翌1888年出版条例違反などの罪で下獄するが、1889年憲法発布大赦で出獄後欧米に遊学。翌1890年帰国後、立憲自由党に入党し、1892年第2回衆議院総選挙で当選。第三議会で第2代衆議院議長となる。議長不信任案可決を認めず議員を除名される。翌1893年総選挙で再選され自由党に復帰。このころより「押し通る」と異名をとり、藩閥・官僚と政党との提携を画策。1900年(明治33)伊藤博文(いとうひろぶみ)を担いで立憲政友会を結成し、第四次伊藤内閣の逓相(ていしょう)となり政界の実力者にのし上がる。民権期以来、改進党の牙城(がじょう)であった東京市政を三多摩壮士を手兵に牛耳(ぎゅうじ)り、1901年市会議長となるが、同年6月21日、教育家の伊庭想太郎(いばそうたろう)(1851―1903)に市庁参事会室内で刺殺された。[松尾章一]
『服部之総著『明治の政治家たち 上』(岩波新書) ▽有泉貞夫著『星亨』(1983・朝日新聞社) ▽鈴木武史著『星亨――藩閥政治を揺がした男』(中公新書)』

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精選版 日本国語大辞典

ほし‐とおる【星亨】
政治家。江戸の生まれ。陸奥宗光の知遇を受けイギリス留学、帰国後、立憲自由党に入党、藩閥政府の批判などを行なう。明治二五年(一八九二)衆議院議長となり、党内に勢力を持つ。のち駐米公使、逓信大臣を歴任、政界の大物として活躍したが、剣客伊庭想太郎に刺殺された。嘉永三~明治三四年(一八五〇‐一九〇一

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