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日光東照宮【にっこうとうしょうぐう】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

日光東照宮
にっこうとうしょうぐう
東照宮」のページをご覧ください

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デジタル大辞泉

にっこう‐とうしょうぐう〔ニツクワウトウセウグウ〕【日光東照宮】

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デジタル大辞泉プラス

日光東照宮
栃木県日光市にある神社。正称は「東照宮」。1616年に没した徳川家康を、翌年遺言により駿河久能山から日光奥院に改葬、東照大権現として祀ったのが起源。陽明門、眠り猫など、数多くの国宝重要文化財がある。1999年、「日光の社寺」の一つとしてユネスコ世界文化遺産に登録。

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世界大百科事典 第2版

にっこうとうしょうぐう【日光東照宮】
栃木県日光市山内にある徳川家康をまつる神社。1616年(元和2)4月17日家康が駿府城で没すると,遺言に基づき,幕府はその夜神式をもって駿河久能山に葬り,墓前に社殿を建てた。遺命により天海の主導で,一周忌を期し下野国都賀郡日光山に改葬することとなり,翌17年仏岩山南に本社,拝殿,本地堂以下が完成,神霊をうつして4月正遷宮の祭礼が行われ,朝廷から東照大権現の神号の宣命正一位神階を受けた。なお廟所奥院の木造宝塔は22年竣工した。

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大辞林 第三版

にっこうとうしょうぐう【日光東照宮】
日光市内にある徳川家康の霊廟れいびよう。1617年駿河久能山より下野しもつけ日光山へ改葬し、1634~36年に大規模に造営。権現造りで江戸時代霊廟建築の代表的遺構。

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日本大百科全書(ニッポニカ)

日光東照宮
にっこうとうしょうぐう
栃木県日光市山内に鎮座。正式名称は「東照宮」。徳川家康を主とし、豊臣(とよとみ)秀吉・源頼朝(よりとも)を合祀(ごうし)する。家康は1616年(元和2)4月17日駿府(すんぷ)城(静岡市)で没し、遺言により久能山(くのうざん)に神葬祭で葬り、翌年4月、日光の奥宮宝塔の地に改葬、国家鎮護の神として奉斎された。これが本社の起源で、その2月鎮座に先だち東照大権現(だいごんげん)の神号が宣下され、東照社と称した。この地は782年(天応2)山岳信仰の風潮とともに、勝道上人(しょうどうしょうにん)が男体山(なんたいさん)を中心に神仏混淆(こんこう)の霊場を開き、現在の二荒山(ふたらさん)神社・輪王寺(りんのうじ)の基礎をつくって以来、関東地方の信仰の中心となり、中世以降も関東武士に崇敬されてきていた。
 家康がこの地を訪ねた記録はないが、ここを関東における霊所、信仰の中心地とみて、ここに一周忌も過ぎたころに祀(まつ)られ、国家鎮護の神たらんことを遺言したものとみられる。その後1645年(正保2)11月に宮号を宣下されて東照宮と称されることとなり、正一位を贈られ、翌年家康の命日にあたる4月17日朝廷より臨時奉幣の儀があり、それより毎年4月幣帛(へいはく)奉納の儀が行われるようになり、例幣使(れいへいし)とよばれ幕末まで続いた。江戸時代に朝廷より毎年幣帛を奉納されたのは、伊勢(いせ)の神宮と東照宮のみであり、東照宮の例幣使はおおむね参議の職にある公卿(くぎょう)が任命され、往路は中山道(なかせんどう)・例幣使街道を、帰路は日光街道・江戸・東海道を通るのを通例とした。
 その社殿は1616年11月2代将軍秀忠(ひでただ)が社地を定め、本多正純(ほんだまさずみ)・藤堂高虎(とうどうたかとら)を奉行(ぶぎょう)とし、中井大和守正清(やまとのかみまさきよ)が設計して着工、翌年4月に完成したが、3代将軍家光(いえみつ)は祖父家康を尊敬する心きわめて篤(あつ)く、伊勢の神宮が20年ごとに造替される例に倣い、34年(寛永11)11月に秋元泰朝(あきもとやすとも)を奉行とし、甲良豊後守宗広(こうらぶんごのかみむねひろ)に設計指揮を命じ、36年4月におよそ現在みられる壮麗な社殿を造営した。この寛永(かんえい)の造営費用金56万8000両、銀100貫、米1000石はすべて幕府の支出であり、金箔(きんぱく)248万5500枚、材木総数14万0076本、工事人夫計454万1230人を要した。この社殿造営にあたり、自然の地形利用を十分に考え、老樹・巨木をなるべく残し、建物配置を相互に緊密にして全体的調和を計り、社殿材料、構造の耐久性、また火災・寒冷・湿気に対する対策を考え、建築物の形式、細部の意匠など当時の最高の技術方法を取り入れ、色彩の調和も計り、精巧優美な建造物造営を目ざした。以後元禄(げんろく)年間(1688~1704)の大修理をはじめ、およそ20年ごとに大規模な修繕がなされてきたが、本殿・石之間・拝殿は権現造の典型的なものであり、正面・背面の唐門、東西の透塀(すきべい)、陽明門(ようめいもん)、回廊とともに国宝に指定されている。また全長37キロメートルに及ぶ日光杉並木(特別史跡、特別天然記念物)は1625年(寛永2)以降松平正綱(まさつな)の寄進によるものである。
 明治の制で別格官幣社。例祭5月17日、徳川宗家(そうけ)、産子会員が参列し盛大に行われたあと、流鏑馬(やぶさめ)神事が行われ、夕刻3基の神輿(みこし)が本社より二荒山神社に渡御し、同夜そこで宵成(よいなり)祭があり、翌18日にはその二荒山神社より表参道を神橋(しんきょう)近くの御旅所(おたびしょ)まで渡御、そこで特殊神饌(しんせん)を供え、奉幣行事のあと、八乙女(やおとめ)舞、東遊(あずまあそび)を奏するが、この渡御は、1617年(元和3)久能山より遷霊した当時の供奉(ぐぶ)行列を模した百物揃(ひゃくものぞろえ)、千人武者行列でにぎわう。また10月16日五重塔前で舞楽、管絃(かんげん)が行われ、翌17日秋季祭で春の例祭時と同様、渡御祭千人武者行列が催される。[鎌田純一]
『東照宮編『東照宮史』(1927・東照宮社務所) ▽日光東照宮編『日光東照宮』(1977・日光東照宮社務所) ▽日光東照宮編『日光杉並木街道』(1978・日光東照宮社務所) ▽太田博太郎他監修、稲垣栄三著『原色日本の美術16 神社と霊廟』(1970・小学館) ▽太田博太郎他監修、桜井敏雄著『名宝日本の美術18 伊勢と日光』(1972・小学館)』

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精選版 日本国語大辞典

にっこう‐とうしょうぐう ニックヮウトウセウグウ【日光東照宮】
「とうしょうぐう(東照宮)(一)」をいう。

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