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新渡戸稲造【にとべ いなぞう】

美術人名辞典

新渡戸稲造
教育家。岩手県生。国際平和を主張し、日米親善に尽力した。愛国心強くその英文武士道』は各国語に翻訳された。東大教授・東京女子大初代学長・国際連盟事務次長。昭和8年(1933)歿、72才。

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デジタル大辞泉

にとべ‐いなぞう〔‐いなザウ〕【新渡戸稲造】
[1862~1933]教育者・農政学者。岩手の生まれ。札幌農学校卒業後、アメリカ・ドイツに留学。一高校長・東大教授・東京女子大初代学長などを歴任国際連盟事務次長、また太平洋問題調査会理事長として国際理解と世界平和のために尽くした。著「農業本論」「武士道」など。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

新渡戸稲造 にとべ-いなぞう
1862-1933 明治-昭和時代前期の教育者。
文久2年8月8日生まれ。新渡戸十次郎の3男。札幌農学校にまなび,内村鑑三らとキリスト教に入信。欧米に留学後,母校の教授となる。明治27年札幌に遠友夜学校を設立。京都帝大,東京帝大の教授をへて大正7年東京女子大学長となる。9年国際連盟事務局次長。「太平洋の橋」になることをねがい,世界平和をとなえた。昭和8年10月15日カナダのビクトリアで死去。72歳。陸奥(むつ)盛岡出身。著作に「武士道」「修養」など。
【格言など】信実と誠実となくしては,礼儀は茶番であり,芝居である

出典:講談社
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世界大百科事典 第2版

にとべいなぞう【新渡戸稲造】
1862‐1933(文久2‐昭和8)
農業経済学者,教育家。南部藩出身で,札幌農学校に学び,札幌バンドの一人となる。1884年東大を中退し,アメリカ,ドイツの諸大学で特に農業経済学,統計学を学び,その間札幌農学校助教授になる。1901年台湾総督府に招かれ,糖業により統治の経済的基礎を確立。03年京都帝大教授,06年一高校長を経て,東京帝大教授となり植民政策講座を担当した。18年には初代の東京女子大学学長に迎えられた。また国際連盟事務局次長(1920‐26),ついで帝国学士院会員,貴族院議員となり,太平洋問題調査会理事長として〈太平洋の橋〉になろうとした。

出典:株式会社平凡社
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大辞林 第三版

にとべいなぞう【新渡戸稲造】
1862~1933 思想家・教育者。岩手県生まれ。札幌農学校卒業後、米・独に留学。京大教授・一高校長・東大教授・東京女子大学初代学長を歴任。また、国際連盟事務局次長を務め国際的にも活躍、キリスト教徒として世界平和のために尽くす。著「武士道」(英文)、「修養」「農業本論」など。

出典:三省堂
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

新渡戸稲造
にとべいなぞう
[生]文久2 (1862).8.8. 岩手,盛岡
[没]1933.10.15. カナダ,ビクトリア
農政学者,教育者,思想家。東京外国語学校を経て札幌農学校に入学,ウィリアム・S.クラークの感化を受けてキリスト教の信仰に入る。同級生に内村鑑三がいた。1884~91年欧米に留学。帰国後札幌農学校教授となるが病を得,1898~1901年療養を兼ねて欧米漫遊。その後,台湾総督府技師などを経て 1903年京都帝国大学教授。1906年第一高等学校校長となり,のち東京帝国大学教授を兼務したが,1913年に同大学教授専任となる。この間の 1911年,最初の日米交換教授としてアメリカ合衆国の 6大学で講義を行なった。1920~26年スイスのジュネーブで国際連盟事務局次長として国際舞台で活躍,帰国後帝国学士院会員,貴族院議員に選出された。また女子教育にも力を注ぎ,津田英学塾の創立に尽力し,東京女子大学初代学長,東京女子経済専門学校の学校長を務めた。1933年カナダのバンフで開催された太平洋会議に日本代表の委員長として出席したが,会議終了後病に倒れ,ビクトリアで客死した。『農業本論』(1898),『修養』(1911)などをはじめとする多くの著作は『新渡戸稲造全集』(23巻別巻1,1987,増補復刻,2001)に,『武士道』Bushido,the Spirit of Japanなどの英文著作は "The Works of Inazo Nitobe"(5巻)に収められている。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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日本大百科全書(ニッポニカ)

新渡戸稲造
にとべいなぞう
(1862―1933)
教育家、農政学者。文久(ぶんきゅう)2年9月1日、盛岡(岩手県盛岡市)に生まれる。東京英語学校を経て、1881年(明治14)札幌農学校卒業。同農学校在学中、内村鑑三(うちむらかんぞう)らとともに受洗し、キリスト者となる。1883年東京大学に入学するも飽き足らず、翌1884年退学し、アメリカに留学。留学中、札幌農学校助教授に任ぜられ、農政学研究のためさらにドイツに留学。1891年帰国し、同校教授となる。1901年(明治34)台湾総督府技師に任ぜられ、殖産事業に参画。1906年第一高等学校校長となり、7年間在職。1909年より東京帝国大学教授として植民政策を講じる。1918年(大正7)東京女子大学学長。一方、「太平洋の橋たらん」との信念のもとに、国際連盟事務次長(1920~1926)あるいは太平洋問題調査会理事長(1929~1933)として、国際理解と世界平和のために活躍した。1933年(昭和8)カナダで開かれた太平洋会議に出席したあと病を得て、同年10月16日同地にて死去。日本における農政学、植民政策論の先駆者であり、最初の農学博士として著名であるのみならず、理想主義、人格主義の思想家であり、たぐいまれな指導者として、学生・生徒に思想的、人格的感化を与え、さらに著述を通して多くの青年男女に大きな影響を与えた。主著に『農業本論』(1898)、『武士道』(1900)、『修養』(1911)などがある。[三原芳一]
『『新渡戸稲造全集』23巻、別巻2(1969~2001・教文館) ▽東京女子大学新渡戸稲造研究会編『新渡戸稲造研究』(1969・春秋社) ▽松隈俊子著『新渡戸稲造』(1969/オンデマンド版・2010・みすず書房) ▽鈴木範久編『新渡戸稲造論集』(岩波文庫)』

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精選版 日本国語大辞典

にとべ‐いなぞう【新渡戸稲造】
教育者。農政学者。岩手県出身。札幌農学校卒。アメリカ留学ののち、京都帝大教授、一高校長に就任。女子高等教育にも尽力し、東京女子大初代学長などを歴任、明治・大正期の日本教育界に重きをなした。キリスト教信者として国際親善にも尽くし国際連盟事務局次長もつとめた。カナダで講演中客死。著「農業本論」「修養」「偉人群像」など。文久二~昭和八年(一八六二‐一九三三

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旺文社日本史事典 三訂版

新渡戸稲造
にとべいなぞう
1862〜1933
明治〜昭和初期の教育家
陸奥(岩手県)の生まれ。東京外国語学校から札幌農学校を経て,アメリカに留学。帰国後,京大教授・一高校長・東京女子大初代校長などを歴任し,1919〜26年には国際連盟事務局次長として国際親善につとめた。英文著書『武士道』は有名。

出典:旺文社日本史事典 三訂版
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