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新島襄【にいじま じょう】

美術人名辞典

新島襄
教育家。元治元年米国へ留学神学を修める。帰国後、同志社を起こし、教育及び伝道に尽力する。明治23年(1890)歿、48才。

出典:(株)思文閣

デジタル大辞泉

にいじま‐じょう〔にひじまジヤウ〕【新島襄】
[1843~1890]教育家。江戸の生まれ。密出国して渡米アマースト大学を卒業。岩倉使節団に随行し欧米の教育制度視察。帰国後、京都に同志社英学校(のちの同志社大学)を創立キリスト教精神に基づく教育に専念した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

新島襄 にいじま-じょう
1843-1890 明治時代の宗教家,教育者。
天保(てんぽう)14年1月14日生まれ。もと上野(こうずけ)(群馬県)安中藩士。元治(げんじ)元年アメリカに密航し,理学,神学をまなぶ。明治5年岩倉使節団に随行して欧米の教育事情を視察。7年宣教師として帰国,翌年同志社英学校(現同志社大)を設立した。「新島襄全集」がある。明治23年1月23日死去。48歳。アンドーバー神学校卒。名は経幹。
【格言など】天を怨みず,人を咎めず(辞世)

出典:講談社
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世界大百科事典 第2版

にいしまじょう【新島襄】
1843‐90(天保14‐明治23)
キリスト教伝道者,教育家。上州安中藩士で,蘭学,航海術を学び,欧米文明とその宗教に感銘し,これを習得して日本に尽くすことを決意。1864年箱館より密航し,アメリカの会衆派信徒ハーディAlpheus Hardy夫妻の世話でキリスト教入信後,アマースト大学,アンドーバー神学校を卒業。その間72年訪米した岩倉遣外使節団に同行して欧米の教育事情を視察。74年アメリカン・ボード年会で,日本にキリスト教主義大学を設立することを訴えて大きな反響を得,宣教師として帰国。

出典:株式会社平凡社
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大辞林 第三版

にいじまじょう【新島襄】
1843~1890) 教育家。上州安中藩士。箱館から密航渡米してアマースト大学・アンドーバー神学校を卒業。帰国後、京都にキリスト教主義教育を目指した同志社英学校を創設。

出典:三省堂
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

新島襄
にいじまじょう
[生]天保14 (1843).1.14. 江戸
[没]1890.1.23. 神奈川,大磯
牧師,教育者。幼名七五三太(しめた)。父民治は上州安中藩右筆。16歳のとき海軍伝習所に入り蘭学を学んだ。元治1(1864)年アメリカ合衆国への渡航を志して脱藩,沿岸測量に従事しつつ箱館に行き,英語を学んだ。同 1年,国禁を犯してアメリカ商船『ベルリン』に乗り,中国の上海でアメリカ船『ワイルド・ロバー』に乗り換え,慶応1(1865)年アメリカのボストンに着いた。同 2年に受洗。同 3年アマースト大学に入学して理学を学び,明治3(1870)年同大学を卒業後,アンドバー神学校に入学した。同 4年岩倉具視を全権大使とする岩倉遣外使節一行の案内役としてヨーロッパに渡った。1874年キリスト教に基づく精神主義教育を行なう学校を日本に設立するために帰国。翌 1875年京都に同志社英学校(→同志社大学)を,1877年には同志社女学校を設立,みずから青年子女の教育にあたった。その教育方針は,信仰に富み高尚な品性を備えた人格陶冶を基本とする。大学設立を目指して各地での伝道のかたわら資金募集に奔走したが,道半ばで病死した。門下に海老名弾正横井時雄浮田和民徳富蘇峰徳冨蘆花安部磯雄山川均らがいる。1954年『新島襄書簡集』が刊行された。

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日本大百科全書(ニッポニカ)

新島襄
にいじまじょう
(1843―1890)
キリスト教牧師、教育者。同志社創立者。江戸一ツ橋の安中(あんなか)藩邸に生れる。父民治(1807―1887)・母とみ(1807―1896)の長男。幼名は七五三太(しめた)、諱(いみな)は経幹(つねもと)。1856年(安政3)藩中の子弟から選抜されて蘭学を学び、1860年(万延1)江戸築地(つきじ)の軍艦操練所に入り、航海実習に従事。1864年(元治1)6月アメリカ船で箱館から海外に脱出、翌1865年(慶応1)7月ボストンに到着。船主アルフィアス・ハーディAlpheus Hardy(1815―1887)夫妻の庇護を受け、1866年12月受洗。翌1867年9月アマースト大学に入学、1870年(明治3)卒業。アンドーバー神学校に進み、1874年7月特別コースを卒業した。なお、1871年7月明治政府から「米国留学」の免許を受け、1872年3月から翌1873年9月にかけて岩倉遣外使節に随行、各国学校教育制度の調査を担当した。1874年9月ボストンの教会で按手礼を受けて牧師となり、10月アメリカン・ボードの年次大会で日本にキリスト教主義学校の設立を訴え、その支持を得て帰国。1875年11月29日京都府顧問山本覚馬を結社人とし、アメリカ人宣教師デービスJerome Dean Davis(1838―1910)を担当教師として同志社英学校を京都に創設した。1877年4月同志社分校女紅場(にょこうば)(のち同志社女学校専問部)を開校。1884年4月から翌1885年12月まで欧米を巡歴して教育と伝道の方策を固めて帰国。1887年仙台に東華学校、京都に同志社病院、京都看病婦学校を開き、1888年11月「同志社大学設立の旨意」を全国に公表し、私学教育の特性を高唱し、徳育を基本とする自由教育を標榜(ひょうぼう)した。大学設立運動のなかば、神奈川県大磯で死去した。1912年専門学校令による同志社大学が開校した。『新島襄全集』全10巻(1983~1996)がある。[杉井六郎]
『ゼー・デー・デビス著、村田勤訳『新島襄先生之伝』(1891・警醒社) ▽ゼー・デー・デビス著、山本美越乃訳補『新島襄先生伝』(1924・警醒社) ▽和田洋一著『新島襄』(1973・日本基督教団出版局/岩波現代文庫)』

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精選版 日本国語大辞典

にいじま‐じょう【新島襄】
明治の教育家、宗教家。群馬県安中出身。元治元年(一八六四)渡米、アマースト大学を卒業後、キリスト教に入信。明治五年(一八七二)岩倉使節団に随行し、アメリカおよびヨーロッパの教育制度などを視察。同七年帰朝。翌年、京都に同志社英学校(のちの同志社大学)を創設した。天保一四~明治二三年(一八四三‐九〇

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