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徳川秀忠【とくがわ ひでただ】

美術人名辞典

徳川秀忠
徳川幕府二代将軍。家康の第三子。幼名長松、のち竹千代院号は台徳院。慶長10年襲職。大坂冬・夏の陣に父と共に出陣して豊臣氏を滅ぼし、徳川氏の世襲的政権を確立した。学を好み、筆跡は優美な御家流を示す。また茶を古田織部に学んでよくその法を伝えた。寛永9年(1632)歿、53才。

出典:(株)思文閣

デジタル大辞泉

とくがわ‐ひでただ〔トクがは‐〕【徳川秀忠】
[1579~1632]江戸幕府第2代将軍。在職1605~1623。家康三男関ヶ原の戦いでは父の不興を買ったが、家康の死後はその遺命を守り、武家諸法度の制定など幕政の整備に努めた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

徳川秀忠 とくがわ-ひでただ
1579-1632 江戸幕府2代将軍。在職1605-23。
天正(てんしょう)7年4月7日生まれ。徳川家康の3男。母はお愛の方(宝台院)。慶長10年将軍職をゆずられる。家康没後は福島正則(まさのり)らの大名の改易(かいえき),娘和子(東福門院)の後水尾天皇への入内(じゅだい),キリシタン禁令,貿易の管理・統制など幕藩体制の基盤をかためた。従一位,太政大臣。寛永9年1月24日死去。54歳。遠江(とおとうみ)(静岡県)出身。幼名は長松,竹千代。法号は台徳院。
【格言など】人を用うるに,過失を以てこれを棄つることなかれ。よろしくその自新を許すべし

出典:講談社
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江戸・東京人物辞典

徳川秀忠
1579〜1632(天正7〜寛永9)【二代将軍】三代への中継ぎとして、着実に幕府の基礎を作る。 二代将軍(在職1605〜23)。家康の3男。1605年将軍職に就く。15年豊臣家を滅亡させると、「武家諸法度」「禁中並公家諸法度」を発令するなど、幕府の基礎固めに尽力。将軍職を家光に譲った後も、大御所として江戸城西丸に居を置き、幕政を握った。

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監修:江戸東京博物館 都市歴史研究室長 北原 進
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世界大百科事典 第2版

とくがわひでただ【徳川秀忠】
1579‐1632(天正7‐寛永9)
江戸幕府2代将軍。徳川家康の三男。母は西郷氏於愛の方。幼名長松(長丸とも),また竹千代。法号台徳院。長兄信康が自害,次兄秀康が羽柴(豊臣)秀吉の養子となったので,おのずと世子の地位につく。1590年(天正18)聚楽第において元服,秀吉の偏諱(へんき)を受けて秀忠と名のり,従四位下侍従,秀吉は織田信雄(のぶかつ)の女を養女として秀忠にめあわせた。翌年正四位下左近衛少将,ついで参議,右近衛中将,92年(文禄1)従三位権中納言と昇進,在京時以外は主として江戸城にあって,政務に奔走する父家康の留守を支えた。

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大辞林 第三版

とくがわひでただ【徳川秀忠】
1579~1632) 江戸幕府第二代将軍(1605~1623)。家康の三男。幼名長松、のち竹千代。大坂両度の陣に出陣、家康の遺命を守って、諸法度の制定・キリシタン禁圧など幕府草創期の基礎を固めた。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

徳川秀忠
とくがわひでただ
[生]天正7 (1579).4.7. 遠江,浜松
[没]寛永9 (1632).1.24. 江戸
江戸幕府2代将軍(在職 1605~23)。徳川家康の三男。母は西郷氏於愛の方。幼名は長松,のちに竹千代と改名。法号は台徳院。元服して,豊臣秀吉の片諱(かたいみな)を賜って秀忠と名のった。慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いでは,進軍中に真田昌幸の妨害にあって合戦に間に合わず,父家康の勘気を被った。同 10年4月16日征夷大将軍宣下。大坂の陣で家康とともに出陣し,豊臣氏を滅ぼした。元和2(1616)年4月17日の家康死去のあとをうけて幕府組織の拡充,整備を行ない,同 6年には娘和子(東福門院)を入内させた。同 9年7月27日将軍職を二男の徳川家光に譲って隠居し(長子長丸は夭折),大御所と称した。隠居後はしばらくの間家光を後見し,寛永3(1626)年8月18日従一位太政大臣。同 4年紫衣事件を通して後水尾天皇に退位を余儀なくさせた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)

徳川秀忠
とくがわひでただ
(1579―1632)
江戸幕府第2代将軍(在職1605~23)。家康の第3子。母は西郷(さいごう)氏お愛の方(宝台院)。天正(てんしょう)7年4月7日遠江(とおとうみ)(静岡県)浜松城に生まれる。幼名は長松、のちに竹千代(たけちよ)と改める。1587年(天正15)従五位下(じゅごいげ)蔵人頭(くろうどのとう)に叙任。1590年豊臣秀吉(とよとみひでよし)に謁し、秀吉の一字を与えられて秀忠と名のる。1592年(文禄1)従三位(じゅさんみ)権中納言(ごんちゅうなごん)。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いでは、別動隊として中山道(なかせんどう)を西上したが、途中真田昌幸(さなだまさゆき)の上田城攻略に手間どり、関ヶ原の戦いに遅れたので家康の怒りを受けた。1605年4月7日、譲られて将軍となったが、実権は駿府(すんぷ)城(静岡市)に移り住んだ大御所家康の手中にあった。大坂冬・夏の陣には家康とともに参加した。1623年(元和9)7月将軍職を家光(いえみつ)に譲り、翌年(寛永1)江戸城西丸(にしのまる)に移ったが、依然実権は大御所秀忠のもとにあった。1626年従一位太政大臣(だいじょうだいじん)。寛永(かんえい)9年1月24日江戸城西丸で没。法号は台徳院(たいとくいん)。江戸増上寺(ぞうじょうじ)に葬る。夫人は浅井長政(あさいながまさ)の第3女お江。淀君(よどぎみ)の妹で、諡(おくりな)は崇源院(すうげんいん)。ツバキやボタンなどの花木を愛し、若いころから茶道の愛好家であったことのほかには、秀忠に関する逸話は律儀さを強調するものが多く、またその幕政上の位置も家康と家光の陰で軽視されてきたきらいがある。しかし、福島正則(ふくしままさのり)など大大名の改易、諸大名の御手伝普請(おてつだいぶしん)による江戸城・大坂城の大強化、キリシタン弾圧、紫衣事件(しえじけん)などにみられる宗教・朝廷の統制強化、南蛮貿易に奉書船制度を創設するなどの政策を通じて、幕藩制的秩序を社会に浸透させた力量はもっと評価されてよい。[高木昭作]

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367日誕生日大事典

徳川秀忠 (とくがわひでただ)
生年月日:1579年4月7日
安土桃山時代;江戸時代前期の江戸幕府第2代の将軍
1632年没

出典:日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」
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精選版 日本国語大辞典

とくがわ‐ひでただ【徳川秀忠】
江戸幕府第二代将軍。家康の三男。幼名長松、のち竹千代。慶長一〇年(一六〇五)将軍となる。元和九年(一六二三)まで将軍職にあって家康の遺命を守り、諸法度の制定、貿易地の制限など幕府組織の整備に努めた。天正七~寛永九年(一五七九‐一六三二

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