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徳川家茂【とくがわ いえもち】

美術人名辞典

徳川家茂
江戸幕府十四代将軍。和歌山藩主斉順の第二子。初名慶福。前藩主斉彊の後を承けて封を襲ぎ、のち将軍家定の継嗣となり、名を家茂と改める。正二位權大納言に任ぜられ、内大臣征夷大将軍を宣下された。慶応2年(1866)歿、21才。

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デジタル大辞泉

とくがわ‐いえもち〔トクがはいへもち〕【徳川家茂】
[1846~1866]江戸幕府第14代将軍。在職1859~1866。紀州藩主徳川斉順の長男。幼名、慶福(よしとみ)。将軍継嗣問題井伊直弼(いいなおすけ)に推されて将軍となり、井伊の死後、皇女和宮(かずのみや)と結婚して公武合体を進めたが、第二次長州征伐の際、大坂城で病死。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

徳川家茂 とくがわ-いえもち
1846-1866 江戸幕府14代将軍。在職1859*-66。
弘化(こうか)3年閏(うるう)5月24日生まれ。徳川斉順(なりゆき)の長男。母はおみさの方(実成院)。嘉永(かえい)2年紀伊(きい)和歌山藩主徳川家13代。安政5年井伊直弼(なおすけ)らに推されて将軍となる。文久2年和宮(かずのみや)と結婚,公武合体の推進につとめる。第2次幕長戦争のさなか慶応2年7月20日大坂城で病没(発喪は8月20日)。21歳。幼名は菊千代。初名は慶福(よしとみ)。法号は昭徳院。

出典:講談社
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江戸・東京人物辞典

徳川家茂
1846〜1866(弘化3〜慶応2)【十四代将軍】公武合体、将軍上洛も虚しく、幕府崩壊が迫る。 14代将軍(在職1858〜66)。紀州藩主徳川斉順の長男。初め慶福。4歳で紀州藩主となる。一橋慶喜とともに将軍世継ぎ候補となり、慶福を推す井伊直弼が大老に就くと、13歳で将軍に就任、家茂と改名した。公武合体のため、皇妹和宮と結婚。朝廷の攘夷実施の求めにより、歴史的な上洛を敢行した。第2次長州征討のとき、内政外交が混迷する中、大坂城で21歳の短い生涯を病に終えた。

出典:財団法人まちみらい千代田
監修:江戸東京博物館 都市歴史研究室長 北原 進
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防府市歴史用語集

徳川家茂
紀伊藩[きいはん]の藩主で、13歳で江戸幕府の第十四代将軍となり、孝明天皇[こうめいてんのう]の妹和宮[かずのみや]と結婚しました。第二次長州征伐[だいにじちょうしゅうせいばつ](四境戦争[しきょうせんそう])の最中に大坂城で病死しました。

出典:ほうふWeb歴史館
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世界大百科事典 第2版

とくがわいえもち【徳川家茂】
1846‐66(弘化3‐慶応2)
江戸幕府14代将軍。紀州藩主徳川斉順の長子。1849年(嘉永2)紀州藩主,58年(安政5)13代将軍家定の継嗣となり,同年の家定死去により将軍位を継いだ。藩主時代の名は慶福(よしとみ),将軍になって家茂と改める。最初の後見職は田安慶頼。大老井伊直弼は家茂と慶頼を上に戴いて安政の大獄を強行した。井伊暗殺翌々年の62年(文久2),公武合体の一方策として皇女和宮と結婚,その年田安慶頼を罷免したが,勅使の干渉により将軍継嗣問題でのライバルだった一橋慶喜を2人目の後見職に任命せざるをえなかった。

出典:株式会社平凡社
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大辞林 第三版

とくがわいえもち【徳川家茂】
1846~1866) 江戸幕府第一四代将軍(1858~1866)。紀州藩主徳川斉順の長男。幼名菊千代。紀州藩主時代の名は慶福よしとみ。井伊直弼なおすけに擁立され、皇女和宮を迎えて公武合体策を推進。第二次長州征伐出陣中大坂城で病死。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

徳川家茂
とくがわいえもち
[生]弘化3(1846).閏5.24. 紀伊
[没]慶応2(1866).7.20. 大坂
江戸幕府 14代将軍 (在職 1858~66) 。和歌山藩主徳川斉順 (将軍家斉の6男) の長男。母は松平六郎右衛門の娘。幼名は菊千代,のち慶福 (よしとみ) 。院号は昭徳院。嘉永2 (49) 年閏4月斉彊 (なりかつ) の養子となって紀州家を継いだ。しかし,嗣子のなかった将軍家定の跡をめぐって一橋慶喜を推す一橋派と対立 (→将軍継嗣問題 ) 。大老井伊直弼の支持を得た慶福は安政5 (58) 年 10月 25日将軍となり,名を家茂と改めた。万延1 (60) 年井伊直弼が桜田門外で殺害されると,幕府は公武合体の政策をとって文久2 (62) 年2月 11日孝明天皇の妹和宮 (かずのみや) 親子内親王を江戸城に迎え家茂夫人とした (→和宮降嫁問題 ) 。同年6月勅使大原重徳が勅旨をもたらしてからは,慶喜を将軍後見職に,松平慶永を政治総裁職に任じて幕政の改革を行なった。また同年 10月三条実美,姉小路公知が東下した際には攘夷の勅旨がもたらされた。翌年3月上京し,天皇の攘夷祈願のための賀茂社行幸に従い,攘夷の期日を5月 10日と奉答し,6月東帰した。元治1 (64) 年7月蛤御門の変 (→禁門の変 ) が起ると薩摩と共同して長州藩兵を退け,続いて長州征伐を命令。第2回の征長役には大坂に本営をおき,みずからも大坂へおもむいて諸軍を統轄したが,敗戦が続き失意のうちに大坂城で病死した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)

徳川家茂
とくがわいえもち
(1846―1866)
江戸幕府第14代将軍。紀州11代藩主徳川斉順(なりゆき)(将軍家斉の子)の長子。弘化(こうか)3年閏(うるう)5月24日、赤坂の江戸藩邸に生まれる。幼名菊千代、のち慶福(よしとみ)と称す。12代藩主斉彊(なりかつ)(斉順の弟)の養子となり、1849年(嘉永2)4歳で家督を継いだ。将軍継嗣(けいし)問題で一橋(ひとつばし)派の推す一橋慶喜(よしのぶ)に対抗する候補とされ、条約勅許問題と絡んだ激しい政争が展開した。結局、1858年(安政5)慶福を推す南紀派の井伊直弼(いいなおすけ)が大老に就任したのち、継嗣と定まり、同年徳川家定(いえさだ)の死去により将軍職を継ぎ、家茂と改めた。
 桜田門外の変による井伊大老横死ののち、老中久世広周(くぜひろちか)、安藤信正(あんどうのぶまさ)らの画策により、1862年(文久2)孝明(こうめい)天皇の妹和宮(かずのみや)を夫人に迎え、公武合体による幕府権力の回復を計ったが、同年の島津久光(しまづひさみつ)の率兵(そっぺい)上京、久光と勅使大原重徳(おおはらしげとみ)の東下によって幕政改革を迫られ、慶喜を将軍後見職に、松平慶永(まつだいらよしなが)を政事総裁職に迎えた。翌1863年、慣例を破り、自ら上洛(じょうらく)、幕権回復を計ったが、朝廷は尊王攘夷(じょうい)派の勢力下にあり、攘夷祈願の賀茂社(かもしゃ)行幸に供奉(ぐぶ)させられた。しかし4月の石清水社(いわしみずしゃ)行幸には随行を固辞して東帰した。その後、八月十八日の政変によって公武合体派が勢力を回復し、1864年(元治1)再度上洛した。ついで、長州藩が、第一次長州征伐ののちにふたたび抗戦の構えをみせたため、第二次の長州征伐となり、1865年(慶応1)三たびの上洛ののち、大坂城の征長軍本営に入った。翌年6月に開戦された長州藩との戦争に、幕軍敗戦の報が相次ぐうちに、7月20日、21歳で城中に病死した。法号昭徳院。[井上勝生]

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367日誕生日大事典

徳川家茂 (とくがわいえもち)
生年月日:1846年5月24日
江戸時代末期の江戸幕府第14代の将軍
1866年没

出典:日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」
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精選版 日本国語大辞典

とくがわ‐いえもち【徳川家茂】
江戸幕府第一四代将軍。紀州藩主斉順(なりより)の長男。家斉の孫。幼名菊千代、のち慶福(よしとみ)。継嗣をめぐって一橋派の推す一橋慶喜と対立したが、井伊直弼の擁立によって安政五年(一八五八)将軍となる。孝明天皇の妹和宮の降嫁で公武合体をはかったが、再度の長州征討の際大坂城で病死。弘化三~慶応二年(一八四六‐六六

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