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徳川家光【とくがわ いえみつ】

美術人名辞典

徳川家光
徳川幕府三代将軍。二代将軍秀忠の次男、母は秀忠の正室浅井長政の娘、お江。幼名竹千代、院号は大猷院酒井忠世土井利勝らの補佐を得て幕政にあたる。武家諸法度参勤交代制をはじめとした諸制度を整備し、また天草の乱を平定し、貿易統制のため鎖国断行徳川幕府の基礎を確立した。政務余暇茶道・画等を嗜んだ。慶安4年(1651)歿、48才。

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デジタル大辞泉

とくがわ‐いえみつ〔トクがはいへみつ〕【徳川家光】
[1604~1651]江戸幕府第3代将軍。在職1623~1651。秀忠の二男。幼名、竹千代。家康秀忠遺志を継ぎ、武家諸法度参勤交代の制などを整え、幕政の基礎を築いた。また、キリシタンを弾圧して鎖国体制を強化した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

徳川家光 とくがわ-いえみつ
1604-1651 江戸幕府3代将軍。在職1623-51。
慶長9年7月17日生まれ。徳川秀忠の次男。母はお江与の方(崇源院)。元和(げんな)9年将軍となる。祖父家康を崇拝し,日光東照宮を大改築した。老中・若年寄などの職制や兵制を整備。閣老協議体制のもとに武家諸法度を改訂して参勤交代を制度化し,大名支配体制を確立。寛永15年島原の乱を平定し,キリシタン取り締まりと貿易統制を強化,鎖国体制を完成した。慶安4年4月20日死去。48歳。幼名は竹千代。法号は大猷院。

出典:講談社
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江戸・東京人物辞典

徳川家光
1604〜1651(慶長9〜慶安4)【三代将軍】幕藩体制を完成させた、「生まれながらの将軍」。 三代将軍(在職1623〜51)。秀忠の2男。家光の将軍継承当初は、前将軍秀忠との二元政治であった。秀忠の死後、土井利勝らの優れた補佐を得て、将軍への権力の一元化が進んだ。法制・職制・兵制・参勤交代などの諸制度が整い、幕藩体制が完成した。対外的には鎖国制度を確立、キリシタン禁制を強化し、島原の乱を招いたが、以後、国内の戦争明治維新まで起らなかった。

出典:財団法人まちみらい千代田
監修:江戸東京博物館 都市歴史研究室長 北原 進
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デジタル大辞泉プラス

徳川家光
山岡荘八の長編歴史小説。1974年刊行。

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世界大百科事典 第2版

とくがわいえみつ【徳川家光】
1604‐51(慶長9‐慶安4)
江戸幕府3代将軍。2代将軍秀忠の次男(長男長丸は早死)。母は浅井長政の三女江与(えよ)(逵子(みちこ),崇源院)。幼名竹千代。法号大猷院。誕生とともに稲葉重通の養女福子(のちの春日局(かすがのつぼね))が乳母となる。永井直貞・松平信綱・稲葉正勝(春日局の子),おくれて阿部忠秋らが小姓に召された。幼時,両親の愛情は弟国千代(忠長)にそそがれていたが,祖父家康が嫡庶にしたがい世子と定めさせたと伝えている。

出典:株式会社平凡社
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大辞林 第三版

とくがわいえみつ【徳川家光】
1604~1651 江戸幕府第三代将軍(1623~1651)。秀忠の二男。幼名竹千代。諸法度の制定、参勤交代など諸制度を整備、キリシタンを弾圧して鎖国を断行、以後二百年余にわたる幕府の支配体制を確立した。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

徳川家光
とくがわいえみつ
[生]慶長9 (1604).7.17. 江戸
[没]慶安4 (1651).4.20. 江戸
江戸幕府3代将軍(在職 1623~51)。徳川秀忠の二男(長兄長丸は夭折)。母は浅井長政の娘徳子。幼名は竹千代。院号は大猷院。元和9(1623)年7月27日征夷大将軍宣下。幕府の諸制度を整備し,法度,兵制,対朝廷政策など種々の面で体制的基礎を確立。初めは土井利勝酒井忠世らの補佐を得て幕政にあたったが,のち松平信綱堀田正盛らも重用。当初は父秀忠が西の丸にあって後見していたが,寛永9(1632)年父の死後は大名統制の強化,キリシタンの弾圧(→キリスト教禁制),鎖国の実施など,いわゆる武断政治を行なった。一方,浪費癖が強く徳川家康以来蓄積した金銀を日光東照宮(→東照宮)の建設などに投じ,幕府財政窮乏の原因をつくった。

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日本大百科全書(ニッポニカ)

徳川家光
とくがわいえみつ
(1604―1651)
江戸幕府第3代将軍(在職1623~51)。秀忠(ひでただ)の第2子(長子長丸は2歳で幼死)。母は秀忠夫人浅井氏お江(ごう)。慶長(けいちょう)9年7月17日江戸城西丸(にしのまる)で生まれる。幼名は竹千代(たけちよ)。乳母(めのと)の春日局(かすがのつぼね)(稲葉重通(いなばしげみち)養女お福(ふく))に育てられる。1620年(元和6)正三位(しょうさんみ)権大納言(ごんだいなごん)。続いて元服して家光と名のる。1623年秀忠と前後して上洛(じょうらく)し将軍宣下(せんげ)を受ける。1626年(寛永3)再度上洛し従一位(じゅいちい)左大臣。1634年三度上洛し太政大臣(だいじょうだいじん)に任じられたが辞退。慶安(けいあん)4年4月20日江戸城本丸で没。法号は大猷院(だいゆういん)。日光大猷廟(たいゆうびょう)(現二荒山(ふたらさん)神社内)に葬る。夫人は関白鷹司信房(たかつかさのぶふさ)の娘中ノ丸殿(なかのまるどの)[高木昭作]

将軍襲職・武断政治

大御所秀忠の死により幕府の実権を握った1632年(寛永9)以来20年間の治世は、将軍権力を安定させ政治的権威の伝統化をもたらした点に歴史的意義が認められる。長子相続が確立していなかった当時は、将軍の代替わりは幕府権力の危機であり、家光も秀忠の死の直後に実弟の駿府(すんぷ)城主徳川忠長(ただなが)(55万石)を改易し自殺に追いやっている。秀忠夫妻の偏愛によって忠長に定まりかけていた将軍後嗣(こうし)が、春日局の直訴を受けた家康の裁定で家光に定まったという話が伝わっているが、こうして競争者を滅ぼした家光は、秀忠時代の老臣を老中として優遇する一方で、側近の旗本組の頭(かしら)(親衛隊長)を新設の若年寄に任命し、1634年それらの職掌を定めて新旧重臣のバランスをとった。
 政策上では、当面、前代を踏襲して貿易統制やキリシタン禁制を強化し、1639年ポルトガル船の日本渡航を禁止して鎖国を完成させた。ついで寺社奉行(ぶぎょう)を設置し、さらに評定所(ひょうじょうしょ)の規則を定めるなど制度の整備に努めた。諸大名に対しては1632年の熊本城主加藤忠広の改易など依然武断主義で臨み、また1635年改定の武家諸法度(ぶけしょはっと)で初めて参勤交代の制度を定めた。御手伝普請(おてつだいぶしん)も1634年江戸城西丸、1639年本丸の火災などもあり、前代同様に諸大名に割り当てられた。こうした負担は結局のところ農民に転嫁され、1633年出羽(でわ)白岩(しらいわ)(山形県寒河江(さがえ)市)の一揆(いっき)など家光の代に入ると農民一揆が散発し始めたが、宗教問題と絡んで大爆発したのが1637年10月から翌年正月の島原の乱であった。この乱は、鎮圧軍の総大将として派遣された家光の側近あがりの老中松平信綱(まつだいらのぶつな)の持久戦策によって鎮定され、家光の側近グループの政治的権威を高めるとともに、キリシタン取締りの強化を結果したが、他方では幕初以来の大名・農民に対する武断主義に基づく強硬路線の再検討を幕府首脳に余儀なくさせた。[高木昭作]

武断主義からの転換

領主財政の疲弊に対する関心は早く1633年(寛永10)の旗本番士への総加増や1635年の旗本法度以降繰り返された倹約の強制にもみられるが、島原の乱に続いて起きた1641~42年の寛永(かんえい)の飢饉(ききん)は、領主財政の基盤である農村の再建が本格的課題となるに至った。その一つの帰結である1649年(慶安2)に農民に対して出された慶安御触書(けいあんのおふれがき)は、勤勉節倹の強制を通じていわゆる封建的階層秩序の貫徹を目ざす点で、武士・町人などを対象としたこの期の倹約令・風俗取締令と共通性があり、武断主義からの幕政転換を示すものであった。以上の傾向を裏打ちしたのが家光の偏執狂的ともいえる家康=東照宮(とうしょうぐう)崇拝であった。自身を家康の生まれ変わりと信じていたふしのある家光は、1634年から1636年にかけて東照宮の大改築を行い、自身も10回にわたって日光(にっこう)に社参。1646年(正保3)には朝廷に要請して例幣使(れいへいし)発遣を制度化するなど東照大権現(だいごんげん)の権威の浸透に努め、幕府の権威の基礎を東照宮に置くことに成功した。[高木昭作]
『広野三郎著『徳川家光公伝』(1963・東照宮社務所)』

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367日誕生日大事典

徳川家光 (とくがわいえみつ)
生年月日:1604年7月17日
江戸時代前期の江戸幕府第3代の将軍
1651年

出典:日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」
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精選版 日本国語大辞典

とくがわ‐いえみつ【徳川家光】
江戸幕府第三代将軍。秀忠の次男。幼名竹千代。元和九年(一六二三)将軍となる。酒井忠世をはじめとする賢臣の補佐によって、法度・職制・兵制・参勤交代などを定めて幕府の基礎を築く。また、キリスト教を禁圧して鎖国体制を強固にした。慶長九~慶安四年(一六〇四‐五一

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旺文社日本史事典 三訂版

徳川家光
とくがわいえみつ
1604〜51
江戸幕府3代将軍(在職1623〜51)
2代将軍秀忠の2男。幕藩体制確立期の将軍で,酒井忠勝・土井利勝・松平信綱らの補佐で,職制の整備,参勤交代の制度化,田畑永代売買禁止令,慶安の触書などを施行。また,対外的には鎖国を完成させ,名実ともに幕藩体制が確立した。江戸城が完成し,江戸の町の原型ができ,寛永通宝の鋳造が始まったのもこの時代である。

出典:旺文社日本史事典 三訂版
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