Rakuten infoseek

辞書

徳川吉宗【とくがわ よしむね】

美術人名辞典

徳川吉宗
徳川幕府八代将軍。幼名源六・新之助・頼方、院号有徳院。紀州藩主徳川光貞の三男。享保の改革を行ない、幕府中興の英主と称えられる。武芸・学問、特に実学を奨励した。宝暦元年(1751)歿、67才。

出典:(株)思文閣

デジタル大辞泉

とくがわ‐よしむね〔トクがは‐〕【徳川吉宗】
[1684~1751]江戸幕府第8代将軍。在職1716~1745。紀伊藩主徳川光貞の四男。紀州藩主から将軍となり、幕府財政の改革幕政の強化につとめ、享保の改革を行った。

出典:小学館
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:田中牧郎、曽根脩
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル版 日本人名大辞典+Plus

徳川吉宗 とくがわ-よしむね
1684-1751 江戸幕府8代将軍。在職1716-45。
貞享(じょうきょう)元年10月21日生まれ。徳川光貞(みつさだ)の4男。母はお由利の方(浄円院)。はじめ越前(えちぜん)丹生(にう)郡に3万石の領地をあたえられる。長兄綱教(つなのり),次兄頼職(よりもと)があいつぎ死去したため,宝永2年紀伊(きい)和歌山藩5代藩主となり,藩財政の立て直しに実績をあげた。享保(きょうほう)元年徳川家継(いえつぐ)の跡をつぎ,将軍となる。倹約の実行,実学の奨励,新田の開発,目安箱の設置など享保の改革をおこなう。米価対策に力をそそぎ米将軍(米公方(くぼう))とよばれた。寛延4年6月20日死去。68歳。幼名は源六,新之助。初名は頼方(よりかた)。法号は有徳院。
【格言など】政事(せいじ)は鳥のしばしば飛(とぶ)が如し。少も由(油)断致すべからざる義なり(「紀州政事草」)

出典:講談社
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

江戸・東京人物辞典

徳川吉宗
1684〜1751(貞享元〜宝暦元)【八代将軍】享保の改革で幕府を近代化。 飛鳥山、隅田川堤に桜を植えた。八代将軍(在職1716〜45)。紀州藩主光貞の4男。1705年、家督を継ぐ。家継が亡くなり、将軍家の血筋が途絶えた後を受け、御三家の中から選ばれて将軍に就任。自ら質素倹約に努め、新田開発の推進など、逼迫した幕府財政の立て直しを図った。また、官僚機構の整備、目安箱、小石川養生所町火消しの設置、飛鳥山や墨田川堤などへの桜植樹など、政治、経済、社会全般にわたる政策を展開。この享保の改革により、江戸幕府は新しいシステムに生まれかわった。

出典:財団法人まちみらい千代田
監修:江戸東京博物館 都市歴史研究室長 北原 進
(C) 財団法人まちみらい千代田
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

世界大百科事典 第2版

とくがわよしむね【徳川吉宗】
1684‐1751(貞享1‐宝暦1)
江戸幕府8代将軍。紀州2代藩主徳川光貞の四男。幼名源六。初名頼方。1697年(元禄10)越前国丹生郡3万石を与えられた。1705年(宝永2)兄が相次いで死去したので紀州藩主を相続,吉宗と改名。藩政改革に努め,倹約励行,士風振粛,財政健全化などの諸政策には,後の幕政改革の原型とみなしうるものがある。16年(享保1)4月7代将軍家継の死去により,老中らに推されて将軍となる。その後在職30年間の施政を〈享保改革〉と通称する。

出典:株式会社平凡社
Copyright (c) Heibonsha Limited, Publishers, Tokyo. All rights reserved.

大辞林 第三版

とくがわよしむね【徳川吉宗】
1684~1751) 江戸幕府第八代将軍(1716~1745)。紀州藩主徳川光貞の四男。幼名源六・新之助。兄の相次ぐ死により紀州藩主となり、徳川家継のあと、徳川宗家を継いだ。諸事家康への復古を唱え、武芸・学問・殖産興業を奨励(享保の改革)、幕府中興の祖とされる。

出典:三省堂
(C) Sanseido Co.,Ltd. 編者:松村明 編 発行者:株式会社 三省堂 ※ 書籍版『大辞林第三版』の図表・付録は収録させておりません。 ※ それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

徳川吉宗
とくがわよしむね
[生]貞享1(1684).10.21. 紀伊
[没]寛延4(1751).6.20. 江戸
江戸幕府8代将軍 (在職 1716~45) 。紀伊徳川光貞の四男。母は巨勢氏。前名は頼方。院号は有徳院。初めは越前国丹生郡に3万石を領したが,兄が相次いで死んだため宝永2 (1705) 年紀州藩 (→和歌山藩 ) 主に迎えられ,さらに正徳6 (1716) 年将軍家継の死後徳川宗家を継ぎ,享保1 (1716) 年8月 13日将軍宣下。吉宗の享保の改革は,「諸事権現様 (家康) 定め通り」と宣言して実行された。文武の奨励,法令の編纂,人材登用,新田開発,貨幣改鋳など多方面にわたる実績を残し,幕府中興の英主と仰がれた。しかし,改革も治世後期には成果が上がらず,家重に家督を譲ってからは大御所と呼ばれた。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

日本大百科全書(ニッポニカ)

徳川吉宗
とくがわよしむね
(1684―1751)
江戸幕府の第8代将軍。享保(きょうほう)の改革を実施した。貞享(じょうきょう)元年10月21日に紀州藩主徳川光貞(みつさだ)(1626―1705)の四男として生まれる。幼名は源六、ついで新之助、頼方(よりかた)と名のる。生母については諸説あるが、さだかでない。
 1695年(元禄8)12歳で従五位下(じゅごいげ)・主税頭(ちからのかみ)となり、翌年従四位下・左近衛権少将(さこのえのごんのしょうしょう)、1697年、5代将軍綱吉(つなよし)が江戸・赤坂の紀州藩邸にきたとき、越前国(えちぜんのくに)(福井県)丹生(にう)郡に3万石の所領を与えられた。1705年(宝永2)兄綱教(つなのり)、頼職(よりもと)の相次ぐ死去により本家55万石を継いだ。同年12月に従三位(じゅさんみ)・左中将となり、綱吉の一字をもらい名を吉宗と改めた。翌年に、伏見宮(ふしみのみや)貞致(さだゆき)親王の娘、真宮理子(さきのみやまさこ)を夫人とし、その翌年に権中納言(ごんちゅうなごん)に昇進した。藩主として12年間在位し、藩財政窮乏のため厳しい緊縮政策をとり倹約に努めた。1716年(正徳6)4月、7代将軍徳川家継(いえつぐ)が危篤に陥るや将軍後見となり、家継の死によって8代将軍となった。同年(享保1)8月13日、将軍宣下の儀が行われた。
 吉宗は将軍となり、譜代大名(ふだいだいみょう)を尊重して幕閣を編成し、家宣(いえのぶ)以来の将軍側近間部詮房(まなべあきふさ)、新井白石(あらいはくせき)らを整理した。このようななかで、享保の改革といわれる政治を断行した。吉宗の将軍在位は30年間に及んでいるが、将軍就任から1722年(享保7)までと、1722年から1730年まで、さらに1730年以降の3時期に分けてみることができる。1722年から1730年までの時期が、いわゆる改革期の政策が積極的に打ち出された時期である。享保の改革は財政再建と行政改革などを実施したものであり、応分の成果をあげている。とくに倹約と米価対策に力を注いだため、野暮(やぼ)将軍とか米将軍などのニックネームがつけられている。吉宗は庶民的人柄であり、世論を吸収すべく目安箱(めやすばこ)を設け、優れた投書については極力採用している。文化に対しても開明的であり、庶民教育に努め、蘭学(らんがく)の発達にも力を注いでいる。さらに、法典の整備に努め、1742年(寛保2)『公事方御定書(くじかたおさだめがき)』(上下)を制定している。また家康代の「御三家(ごさんけ)」と同じような目的で「御三卿(ごさんきょう)」を設定したことも重要である。
 吉宗は1745年(延享2)隠居し、11月2日、吉宗の長男家重(いえしげ)が35歳で9代将軍の宣下を受けている。吉宗の人柄などについては『有徳院殿御実紀』の付録に詳しいが、倹約を貫き、唯一といわれる趣味は鷹狩(たかがり)であり、これは趣味の域を超えて熱中している。貴族的教養としての学問には関心が薄かったが、実用的な学問には関心を示している。家康崇拝熱も大きく、つねに「権現(ごんげん)様」への復古を目ざしていた。宝暦(ほうれき)元年6月20日没、法号有徳院。墓は上野寛永寺(かんえいじ)にある。[土肥鑑高]
『辻達也著『徳川吉宗』(1958・吉川弘文館) ▽辻達也著『享保改革の研究』(1963・創文社) ▽大石慎三郎著『増補 享保改革の経済政策』(1968・御茶の水書房)』

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

367日誕生日大事典

徳川吉宗 (とくがわよしむね)
生年月日:1684年10月21日
江戸時代中期の江戸幕府第8代の将軍
1751年没

出典:日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」
(C) Nichigai Associates, Inc., All rights reserved.
それぞれの項目は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

精選版 日本国語大辞典

とくがわ‐よしむね【徳川吉宗】
江戸幕府第八代将軍。紀伊家徳川光貞の四男。幼名源六、のち新之助。紀州家五代藩主から享保元年(一七一六)将軍となる。貨幣改鋳、学問奨励をなし、財政面では新田開発、年貢の増収をはかって幕政を改革(享保の改革)、「幕府中興の英主」と称される。貞享元~宝暦元年(一六八四‐一七五一

出典:精選版 日本国語大辞典
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

徳川吉宗」の用語解説はコトバンクが提供しています。

徳川吉宗の関連情報

他サービスで検索

「徳川吉宗」のスポンサー検索

(C)The Asahi Shimbun Company /VOYAGE GROUP, Inc. All rights reserved.
No reproduction or republication without written permission.