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徳川光圀【とくがわ みつくに】

美術人名辞典

徳川光圀
江戸前期の大名。常陸水戸藩徳川家二代当主。家康の孫、頼房の三男。字は子龍、号は梅里。民治に努め、儒学を重んじた。江戸の藩邸彰考館を建てて『大日本史編纂事業を始め、朱舜水を招くなど、水戸学の基をつくった。のち中納言となり、水戸黄門と呼ばれた。元禄13年(1700)歿、73才。

出典:(株)思文閣

デジタル大辞泉

とくがわ‐みつくに〔トクがは‐〕【徳川光圀】
[1628~1701]江戸前期の水戸藩主。頼房の三男。諡号(しごう)、義公彰考館を設立して「大日本史」の編纂(へんさん)を始め、社寺の改革、勧農政策を推進した。中納言となり、その唐名黄門(こうもん)から後世、講談師によって水戸黄門として伝説化された。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

徳川光圀 とくがわ-みつくに
1628-1701* 江戸時代前期の大名。
寛永5年6月10日生まれ。徳川頼房(よりふさ)の3男。寛文元年常陸(ひたち)水戸藩主徳川家2代となる。殉死を禁止,社寺を整理,水戸の上水道を敷設する。江戸藩邸に史局(彰考館)をたて「本朝之史記」(のちの「大日本史」)の編修を開始し,また明(みん)(中国)の朱舜水(しゅ-しゅんすい)をまねく。元禄(げんろく)3年権(ごんの)中納言。4年藩主の座を兄の讃岐(さぬき)高松藩主松平頼重の子綱条(つなえだ)にゆずり,久慈郡新宿(あらじゅく)村(常陸太田市)の西山荘に隠居。領内巡視,文化財の保護などにつとめた。中納言の唐名「黄門」により水戸黄門の名で知られる。元禄13年12月6日死去。73歳。初名は光国。号は梅里,西山。字(あざな)は子竜。諡(おくりな)は義公。

出典:講談社
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世界大百科事典 第2版

とくがわみつくに【徳川光圀】
1628‐1700(寛永5‐元禄13)
江戸中期の大名。水戸藩初代藩主徳川頼房の三男として水戸に生まれる。母は頼房の側室谷久子。家臣の屋敷で養われた。幼名は長丸,のち千代松,9歳で元服のとき3代将軍徳川家光の1字を与えられて光国と名のる。のち50歳代に国を圀に改めた。字ははじめ徳亮,また観之,のち子竜。号は常山,別号は日新斎,梅里,率然(そつぜん),隠居して西山,採薇(さいび)などを用いた。諡(おくりな)は義公。6歳のとき世子に決定し,江戸の水戸藩邸に移り,61年(寛文1)父の死後,34歳で第2代藩主となる。

出典:株式会社平凡社
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大辞林 第三版

とくがわみつくに【徳川光圀】
1628~1700) 江戸前期の水戸藩主。頼房の三男。幼名千代松。字あざなは子竜、号は梅里ばいり。諡号、義公。中納言の唐名黄門により、世に水戸黄門とも。大義名分を重んじて儒学を奨励、彰考館を設けて俊才を招き、「大日本史」を編纂した。希代の名君と賞され「水戸黄門漫遊記」による逸話が広く流布している。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

徳川光圀
とくがわみつくに
[生]寛永5(1628).6.10. 水戸
[没]元禄13(1700).12.6. 常陸,西山
江戸時代前期の水戸藩主。頼房の3男。母は谷氏。幼名は千代松。字は子龍。号は梅里。諡は義公。寛文1 (1661) 年初代頼房より家督相続。以後,民政を重視し勧農策の実施や士風の高揚をはかり,社寺をきびしく統制。また,学問を好み,明の遺臣朱之瑜 (舜水) を招いて師事した。特に大義名分を明らかにすることに努め,明暦3 (57) 年修史に志して江戸駒込の下屋敷に史館を設けた。のちに小石川に移して彰考館と名づけ『大日本史』の編纂に努力。修史事業は死後も続けられ,のちに水戸学の源流をなした。中納言であったため,その唐名により水戸黄門の名で親しまれた。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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日本大百科全書(ニッポニカ)

徳川光圀
とくがわみつくに
(1628―1700)
江戸前・中期の大名。御三家水戸藩第2代の藩主。幼名は長丸(ちょうまる)、のち千代松(ちよまつ)、元服して名を光国といった。光圀となったのは50歳代後半からである。字(あざな)は、初め徳亮(とくりょう)、また観之(かんし)、のち子竜(しりゅう)。号は日新斎(にっしんさい)、常山人(じょうざんじん)、率然子(そつぜんし)などがあるが、晩年の梅里(ばいり)、西山(せいざん)が有名。義公(ぎこう)は諡(おくりな)である。光圀を理解するには、その生涯を4期に分けるのがもっとも適当であろう。[瀬谷義彦]

第1期

出生と水戸時代。寛永(かんえい)5年6月10日、水戸城下の重臣三木之次(ゆきつぐ)の屋敷で生まれ、6歳で水戸家の世子(せいし)(跡継ぎ)に決定するまで。初代藩主徳川頼房(よりふさ)(家康の第11子)の三男。母は谷久子、諡は靖定(せいてい)夫人。光圀が頼房の子と認められ、水戸城入りをしたのは5歳のころで、その出生は不遇であった。[瀬谷義彦]

第2期

世子の時代。世子に決まり、江戸・小石川の水戸藩邸に移った1633年(寛永10)から61年(寛文1)34歳で藩主となるまでの、およそ28年間。18歳のとき『史記』の「伯夷(はくい)伝」を読んで感動し、学問に目覚め、修史の志をたてるまでは、非行が多く父や家臣らを困らせた。27歳のとき前関白近衛信尋(このえのぶひろ)の娘泰姫(たいひめ)と結婚したが、31歳で夫人を亡くしてからは、生涯後妻を迎えなかった。1657年(明暦3)2月、江戸大火の直後、光圀は史局を江戸・駒込(こまごめ)の中屋敷(東京大学農学部構内)に開設した。修史事業の第一歩である。[瀬谷義彦]

第3期

藩主の時代。34歳から1690年(元禄3)63歳で引退するまでの29年間である。この間、上水道の敷設、士族の墓地の創設、社寺の郊外移転などによって、城下町水戸の整備を図ったほか、小石川邸内に史局を移して彰考館と命名し、全国から学者を招いて、『大日本史』編纂(へんさん)を本格的に進めた。[瀬谷義彦]

第4期

西山時代。引退してから翌年水戸の北方西山の地(常陸太田(ひたちおおた)市)に山荘を建てて、元禄(げんろく)13年12月6日、73歳で没するまでのおよそ10年間。藩主の職は兄の高松藩主松平頼重(よりしげ)の子綱条(つなえだ)に譲ったが、なお政治的には綱条の後見的役割を果たしたほか、『大日本史』の本紀、列伝の完成を目ざして、彰考館を水戸城中にも開き、その結果多くの学者が水戸にも集められ、水戸の学問的発展の基となったこと、盛んに領内を巡り民情視察を行ったこと、とくに文化財の発掘保護に努めたことなどは、晩年の特色である。
 光圀のおもな業績は、父頼房の死に際して殉死を禁じ幕府の殉死禁令に示唆を与えたといわれること、徹底した社寺の改革などが政治的に重要である。文化史上では、『大日本史』など各種の編纂事業、侍塚(さむらいづか)古墳の発掘調査、那須国造(なすくにのみやつこ)碑はじめ多くの文化財の保護に努めたことなど、現代的意義が大きい。世に喧伝(けんでん)される「水戸黄門(こうもん)漫遊記」の類は、光圀の名声をもとに、明治末期から大正にかけて創作されたものであろう。[瀬谷義彦]
『佐藤進著『水戸義公伝』(1911・博文館) ▽名越時正著『新版水戸光圀』(1986・水戸史学会) ▽瀬谷義彦著『水戸の光圀』(1985・茨城新聞社)』

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367日誕生日大事典

徳川光圀 (とくがわみつくに)
生年月日:1628年6月10日
江戸時代前期;中期の大名
1701年没

出典:日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」
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精選版 日本国語大辞典

とくがわ‐みつくに【徳川光圀】
江戸初期水戸藩二代藩主。頼房の三男。幼名長丸、のち千代松。字(あざな)は徳亮・子龍。号は日新斎・梅里など。藩制創業を継ぎ、「大日本史」「釈万葉集」編纂、勧農政策、藩士の規律、士風の高揚に努めた。後世講談師により「水戸黄門漫遊記」がつくられた。寛永五~元祿一三年(一六二八‐一七〇〇

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