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徳冨蘆花【トクトミロカ】

デジタル大辞泉

とくとみ‐ろか〔‐ロクワ〕【徳冨蘆花】
[1868~1927]小説家。熊本の生まれ。本名、徳富健次郎。蘇峰の弟。同志社中退後、民友社の記者となり、小説「不如帰」、随筆小品集「自然と人生」を発表して作家的地位を確立。のちトルストイに心酔、晩年はキリスト者として求道的生涯を送った。他に「思出の記」「みみずのたはこと」「黒潮」「富士」など。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

徳冨蘆花 とくとみ-ろか
1868-1927 明治-大正時代の小説家。
明治元年10月25日生まれ。兄徳富蘇峰の民友社にはいる。明治33年「不如帰(ほととぎす)」で作家として自立。社会小説「黒潮」で兄と対立し,民友社をさる。エルサレム巡礼,トルストイ訪問ののち東京郊外で半農生活をおくり,「みゝずのたはこと」などをかいた。昭和2年9月18日死去。60歳。肥後(熊本県)出身。墓所は東京の蘆花恒春園。同志社中退。本名は健次郎。作品に「自然と人生」「思出の記」など。
【格言など】肉体の死は何でもない。恐るべきは霊魂の死である(明治44年,一高での講演)

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世界大百科事典 第2版

とくとみろか【徳冨蘆花】
1868‐1927(明治1‐昭和2)
小説家。本名健次郎。熊本県水俣の生れ。惣庄屋兼代官の家に猪一郎(蘇峰)の弟として生まれた。少年時に京都同志社に学び,熊本でキリスト教受洗ののち再び同志社に復学したが,新島襄の義姪との恋を反対されて出奔。1889年上京して蘇峰の経営する民友社に入り,《国民之友》《国民新聞》《家庭雑誌》に種々の文章を書いたが,本領を見いだしたのはのちに《自然と人生》(1900)などにまとめられる自然描写の小品であった。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

徳冨蘆花
とくとみろか
[生]明治1 (1868).10.25. 肥後,水俣
[没]1927.9.18. 群馬,伊香保
小説家。本名健次郎。熊本洋学校,同志社英学校(→同志社大学)を経て兄猪一郎(徳富蘇峰)の経営する大江義塾に学んだ。1889年上京して蘇峰の始めた民友社に入社,10年間の雑文書きや翻訳の下積み生活ののち,家族制度の悲劇を扱った家庭小説不如帰』(1898~99)で一躍文名をあげた。散文集『自然と人生』(1900),半自伝長編『思出の記』(1900~01)の成功により民友社を退社,1903年未完の長編小説『黒潮』第1編を刊行した。以後国粋主義に傾斜した蘇峰との対立を深めつつ,社会性に富む伝記小説『寄生木(やどりぎ)』(1909),宗教文学の傑作とされる『新春』(1918)を経て,妻との共著のかたちで自伝的長編『冨士』(1925~28)を書いた。ほかに『順礼紀行』(1906),『みゝずのたはこと』(1913),『黒い眼と茶色の目』(1914)などがある。

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日本大百科全書(ニッポニカ)

徳冨蘆花
とくとみろか
(1868―1927)
小説家。本名健次郎。明治元年10月25日(新暦では12月8日)、肥後国水俣(みなまた)(現水俣市)の生まれ。徳富家は代々郷士の家柄。親戚(しんせき)には傑物が多く、兄の蘇峰(そほう)には終生劣等感を抱いた。16歳で受洗。同志社(現同志社大学)では新島襄(にいじまじょう)の義姪(ぎてつ)と恋をし、反対されて出奔、熊本へ帰った。20歳で上京、兄の民友社に入り記者となる。結婚後、立身できないいらだちから生活はすさんだが、29歳、神奈川県逗子(ずし)へ転居し、自然に親しみ、心はほぐれていく。評伝『トルストイ』(1897)の脱稿は新生への足掛りとなった。1900年(明治33)、『不如帰(ほととぎす)』と清新な自然文集『自然と人生』の刊行によって注目され、翌年の『思出(おもいで)の記』ともどもロングセラーとなり、作家的地位を確立。当時、蘆花は汎神論(はんしんろん)的傾向にあり、自然すなわち神による人生の解脱(げだつ)が作品に共通する主題であった。日本という国家の解脱を目ざした社会小説『黒潮(くろしお)』は第1編刊行(1903)だけで中絶したが、その際、兄と決別。この中絶は蘆花の文学観を変える。
 1905年(明治38)8月、富士山頂で人事不省に陥り、これを神による警鐘と受け止めて回心。翌年、聖地を巡礼、トルストイを訪ねて『順礼紀行』を著し、1907年からは粕谷(かすや)(東京都世田谷区)に移り、「美的百姓」を始めた。随筆集『みゝずのたはこと』(1913)はその所産。その間、伝記小説『寄生木(やどりぎ)』(1909)を書き、大逆事件では旧制一高での講演『謀叛論(むほんろん)』(1911)などで被告を弁護した。失恋体験を描いた『黒い眼(め)と茶色の目』(1914)以後、虚偽のない「生活即芸術」の文学を志す。紀行『死の蔭(かげ)に』刊行の翌1918年(大正7)、自分と妻をアダムとイブと自覚し、それを告白した随筆集『新春』を出し、夫妻での世界周遊紀行『日本から日本へ』(1921)では、再臨のキリストと自認するまでになる。夫妻で結婚生活の告白小説『冨士(ふじ)』を書いたが、昭和2年9月18日、群馬県伊香保(いかほ)で病死。同書は4巻(1925~1928)で中絶した。晩年は文壇から孤立。文学史的位置も未確定である。墓地と旧居が粕谷の蘆花公園にある。[吉田正信]
『『蘆花全集』全20巻(1928~30・同書刊行会) ▽『明治文学全集42 徳冨蘆花集』(1966・筑摩書房) ▽中野好夫著『蘆花徳冨健次郎』全3部(1972~74・筑摩書房) ▽蘆花会編『徳冨蘆花 検討と追想』(1936・岩波書店)』

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