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後醍醐天皇【ごだいごてんのう】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

後醍醐天皇
ごだいごてんのう
[生]正応1(1288).11.2. 京都
[没]延元4=暦応2(1339).8.16. 吉野
第 96代の天皇 (在位 1318~39) 。名は尊治。後宇多天皇の第2皇子。母は談天門院忠子 (参議藤原忠継の娘) 。文保2 (18) 年即位。後宇多法皇の院政のもとにあったが,元亨1 (21) 年から院政を廃して天皇親政を復活した。まず吉田定房,北畠親房らの人材を集め,記録所を再興し,政治の改革に努めた。しかし天皇政治をはばむ根源が鎌倉幕府にあることを痛感すると,日野資朝,俊基らの公卿とともに討幕計画を進めた。正中の変元弘の乱と2度とも失敗に終り,元弘2=正慶1 (32) 年隠岐に流されたが,のち隠岐を脱出して伯耆に移り,幕府が滅亡すると京都に帰還し,建武中興が開始された。しかし足利尊氏離反で挫折して天皇は吉野に逃れた。『建武年中行事』『建武日中行事』の著がある。陵墓は奈良県吉野郡吉野町塔尾陵

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デジタル大辞泉

ごだいご‐てんのう〔‐テンワウ〕【後醍醐天皇】
[1288~1339]第96代天皇。在位1318~1339。後宇多天皇の第2皇子。名は尊治(たかはる)。天皇親政・人材登用など政治の改革に努め、鎌倉幕府打倒を図ったが、正中の変(1324)・元弘の変(1331)に失敗、隠岐(おき)に流された。のち、脱出して建武の中興に成功したが、足利尊氏(あしかがたかうじ)の謀反により2年余で新政府は倒れ、後村上天皇に譲位、吉野で死去。編著に「建武年中行事」など。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

後醍醐天皇 ごだいごてんのう
1288-1339 鎌倉-南北朝時代,第96代天皇。在位1318-39。
正応(しょうおう)元年11月2日生まれ。後宇多天皇の第2皇子。母は藤原忠子(談天門院)。花園天皇の譲位をうけて即位。大覚寺統。院政を廃止し親政をおこなう。鎌倉幕府打倒の兵をあげて敗れ,一時隠岐(おき)に流されるが,楠木正成(くすのき-まさしげ),足利高氏(尊氏)らの働きで討幕をはたし,建武(けんむ)の新政の実行をめざす。しかし新政への武士らの不満をになう尊氏は,別に光明(こうみょう)天皇を擁立(北朝)し,室町幕府をひらいた。天皇は吉野にのがれて南朝をたて,北朝や尊氏と対立した。子の後村上天皇に譲位した翌日の暦応(りゃくおう)2=延元4年8月16日死去。52歳。墓所は塔尾陵(とうのおのみささぎ)(奈良県吉野町)。諱(いみな)は尊治(たかはる)。別名に吉野院。著作に「建武年中行事」「建武日中行事」。
【格言など】玉骨は縦(たとい)南山の苔に埋るとも,魂魄(こんぱく)は常に北闕(ほつけつ)の天を望(のぞま)ん(「太平記」)

出典:講談社
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防府市歴史用語集

後醍醐天皇
 1318年に即位した天皇で、鎌倉幕府を倒そうと2度計画をたてますが、失敗し、隠岐[おき]に流されます。後に鎌倉幕府がほろびると建武の新政[けんむのしんせい]をはじめますが、足利尊氏[あしかがたかうじ]が背き、吉野[よしの]に逃れて、南朝[なんちょう]をつくりました。

出典:ほうふWeb歴史館
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世界大百科事典 第2版

ごだいごてんのう【後醍醐天皇】
1288‐1339(正応1‐延元4∥暦応2)
第96代に数えられる天皇。在位1318‐39年。後宇多天皇の第2皇子。母は談天門院藤原忠子。1302年(乾元1)親王宣下。諱(いみな)は尊治(たかはる)。04年(嘉元2)大宰帥となり,帥宮(そちのみや)といわれた。当時,皇統は大覚寺・持明院両統に分裂していたが,大覚寺統の後宇多は第1皇子である後二条天皇の子邦良に皇位を伝えようとし,尊治は邦良幼少時の中継ぎとして08年(延慶1)持明院統の花園天皇の皇太子に立った。

出典:株式会社平凡社
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大辞林 第三版

ごだいごてんのう【後醍醐天皇】
1288~1339) 第九六代天皇(在位1318~1339)。名は尊治。後宇多天皇の皇子。親政を企てて正中の変・元弘の変に敗れ、隠岐に流された。1333年脱出し、新田義貞・足利尊氏らの支援で鎌倉幕府を滅ぼして建武新政権を樹立。のち公武の不和から親政は失敗し、尊氏らも離反、36年吉野に移り南朝を立てた。

出典:三省堂
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日本大百科全書(ニッポニカ)

後醍醐天皇
ごだいごてんのう
(1288―1339)
いわゆる「建武中興(けんむのちゅうこう)」を実現した天皇。後宇多天皇(ごうだてんのう)の第2皇子として正応(しょうおう)元年11月2日に生まれる。母は参議藤原忠継(ふじわらのただつぐ)の娘談天門院(だんてんもんいん)忠子(ちゅうし)。名は尊治(たかはる)。大覚寺統(だいかくじとう)に属し、1318年(文保2)31歳で即位、1321年(元亨1)院政を廃して親政を開始、吉田定房(よしださだふさ)、北畠親房(きたばたけちかふさ)、万里小路宣房(までのこうじのぶふさ)、日野資朝(ひのすけとも)、日野俊基(としもと)らの人材を集め、記録所を再興して、政務に励むとともに、学問、武芸の振興に努めた。この間、鎌倉幕府打倒の意思を固め、「無礼講」とよんだ講書・酒宴の会合に事寄せ人々を結集して倒幕の秘計を進めたが、1324年(正中1)六波羅探題(ろくはらたんだい)に密偵され、側近の多数が逮捕された(正中(しょうちゅう)の変)。この事件で危うく難を免れた天皇は、その後、皇子の護良親王を天台座主(てんだいざす)にすることによって比叡山(ひえいざん)勢力も引き入れようとするなどして、ふたたび倒幕計画を進めた。しかし1331年(元弘1)4月、吉田定房がまた計画を幕府に密告したため、8月天皇は東大寺に逃れ、ついで笠置(かさぎ)(京都府相楽(そうらく)郡笠置町)に立てこもり、幕府に不満をもつ諸国の武士、寺社勢力などに蜂起(ほうき)を呼びかけた。これに対し幕府は大軍を送って笠置を包囲したため、天皇は捕らえられて1332年隠岐(おき)に流された(元弘(げんこう)の変)。
 天皇の隠岐配流中の動静は不明であるが、護良親王、楠木正成(くすのきまさしげ)らの活躍によって反幕勢力の力が強まると、1333年(元弘3・正慶2)閏(うるう)2月、天皇は隠岐を脱出、伯耆(ほうき)(鳥取県)の名和長年(なわながとし)らの支持を得て6月京都に帰った。これに先だつ5月幕府は滅亡したため、天皇は、幕府の擁立していた持明院統(じみょういんとう)の光厳天皇(こうごんてんのう)を廃し、建武新政を開始した。
 新政は、従来の伝統にとらわれず、征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)も置かないで、天皇が自ら公家(くげ)・武家両者を統率しようとするものであった。中央には記録所、雑訴決断所(ざっそけつだんしょ)、武者所(むしゃどころ)などの新設機関を置き、地方の国々は国守・守護併存とし、従来の官位相当や家柄も無視して公武の人材を登用した。しかし論功行賞においては公家優先であったうえ、従来の所領の領有権は改めて天皇の安堵(あんど)を受けなければならないという強引な政策を打ち出したり、皇居造営のための臨時賦課を強行したりしたため、地方武士の新政に対する不満は急速に高まった。また公家にしても、伝統的な摂関政治型の体制が否定され、天皇独裁のもとに恣意(しい)的な人事が行われたため、それに対する失望は大きかった。
 そうしたなかで1335年(建武2)北条残党が蜂起すると、その討伐のために関東に下った足利尊氏(あしかがたかうじ)が反し、天皇は西上した尊氏を避けて叡山に逃れた。尊氏はいったん九州に落ちたのち再度入京、天皇を花山院(かざんいん)(京都市上京区、京都御苑(ぎょえん)内)に幽閉した。このため天皇は1336年12月吉野に逃れ、ここにいわゆる吉野朝廷が開かれ、以後南北朝併立時代に入る。天皇は諸皇子を各地方に派遣し、地方武士の掌握に努めたが、これも次々に敗れ、吉野に従う公家も少なく、孤立が深まるなかで、1339年(延元4・暦応2)義良親王(のりよししんのう)(後村上天皇(ごむらかみてんのう))に譲位、同年52歳で死去した。遺詔により後醍醐と諡号(しごう)したが、それは生前自ら撰(えら)んだものという。
 陵墓は奈良県吉野町の塔尾陵(とうのおりょう)
 天皇は日本史上異例の独裁型執政を行うことによって波瀾(はらん)に満ちた生涯を送ったが、朱子学や真言(しんごん)の教義に通じるとともに、典礼、和歌などにも造詣(ぞうけい)深く、『建武年中行事』『建武日中行事』を著した。また吉野時代には「事問はん人さへ稀(まれ)になりにけり我世の末の程そ知らるる」の歌もある。[永原慶二]
『佐藤進一著『日本の歴史9 南北朝の動乱』(1965・中央公論社)』

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367日誕生日大事典

後醍醐天皇 (ごだいごてんのう)
生年月日:1288年11月2日
鎌倉時代後期;南北朝時代の第96代(南朝初代)の天皇
1339年没

出典:日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」
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精選版 日本国語大辞典

ごだいご‐てんのう ‥テンワウ【後醍醐天皇】
第九六代天皇。後宇多天皇の第二皇子。母は談天門院忠子。名は尊治(たかはる)。文保二年(一三一八)即位。親政を行ない、吉田定房、北畠親房などの人材を登用した。王政復古を志して討幕を計画したが、正中の変(一三二四)、元弘の変(一三三一)の両度ともに失敗して隠岐に流された。正慶二年(一三三三)脱出して、鎌倉幕府が滅亡すると建武新政府を樹立した。のち親政に失敗して足利尊氏と対立、吉野に移って南朝を開いた。暦応二年(一三三九)義良親王(後村上天皇)に譲位し、翌日没した。在位二二年。儒学を学び、和歌は「新葉集」に収められ、著書に「建武年中行事」などがある。正応元~暦応二年(一二八八‐一三三九

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