Rakuten infoseek

辞書

後白河天皇【ごしらかわてんのう】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

後白河天皇
ごしらかわてんのう
[生]大治2(1127).9.11. 京都
[没]建久3(1192).3.13. 京都
第 77代の天皇 (在位 1155~58) 。名は雅仁,法名は行真。鳥羽天皇の第4皇子。母は中宮待賢門院璋子 (権大納言藤原公実の娘) 。久寿2 (55) 年践祚し,次いで即位した。皇位継承に端を発した保元の乱 (→保元・平治の乱 ) は天皇方の勝利となったが,在位わずか3年にして保元3 (58) 年,皇太子守仁 (二条天皇) に位を譲り,上皇として院政を始め,のち六条,高倉,安徳,後鳥羽と4朝にわたって院政を行なった。その間に平治の乱,平氏全盛,源平合戦 (→治承の内乱 ) ,平氏滅亡,鎌倉幕府の成立,守護地頭の設置など世は激しく変化していったが,院は近臣とともに種々の権謀術数を弄して対処した。また仏道に志し,嘉応1 (69) 年剃髪して法皇となり,蓮華王院,長講堂などの造寺あるいは造仏,そして熊野,高野,比叡,東大寺などの参詣を盛んに行なった。また『梁塵秘抄』 (10巻) ,『梁塵秘抄口伝集』 (10巻) を撰した。陵墓は京都市東山区三十三間堂廻の法住寺陵。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル大辞泉

ごしらかわ‐てんのう〔ゴしらかはテンワウ〕【後白河天皇】
[1127~1192]第77代天皇。在位1155~1158。鳥羽天皇の第4皇子。名は雅仁。法名行真二条天皇に譲位後、5代三十余年にわたって院政を行い、王朝権力の復興・強化に専念した。源平の争いを中心とする政争戦乱の陰の演出者とされる。また、造寺・社寺参詣を盛んに行った。梁塵秘抄(りょうじんひしょう)を撰。

出典:小学館
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:田中牧郎、曽根脩
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル版 日本人名大辞典+Plus

後白河天皇 ごしらかわてんのう
1127-1192 平安時代後期,第77代天皇。在位1155-58。
大治(だいじ)2年9月11日生まれ。鳥羽(とば)天皇の第4皇子。母は藤原璋子(待賢門院)。異母弟近衛(このえ)天皇の死により即位。3年余で譲位し,その後,二条・六条・高倉・安徳・後鳥羽天皇の5代にわたり,平清盛による中断はあるが,三十余年間院政をおこなう。保元(ほうげん)・平治(へいじ)の乱後の源平対立をたくみに利用して,王朝権力を維持した。建久3年3月13日死去。66歳。墓所は法住寺陵(ほうじゅうじのみささぎ)(京都市東山区)。諱(いみな)は雅仁(まさひと)。法名は行真。今様をあつめて「梁塵(りょうじん)秘抄」を撰した。

出典:講談社
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

世界大百科事典 第2版

ごしらかわてんのう【後白河天皇】
1127‐92(大治2‐建久3)
第77代に数えられる天皇。在位1155‐58年。鳥羽天皇の第4皇子。名は雅仁。母は待賢門院藤原璋子。近衛天皇急死の後,鳥羽院,美福門院,藤原忠通の意向で,後白河の子(後の二条天皇)を即位させるための暫定措置として1155年(久寿2)29歳で即位。翌56年(保元1)鳥羽院の死を契機に,皇位継承問題に摂関家の内紛が絡み,武士をとりこむ形で保元の乱が勃発する。勝利をおさめた後白河天皇側は崇徳上皇を配流し,信西を中心に天皇親政の体制をかため保元新制を断行,さらに没官所々を後院領として後白河院政の実現に備えた。

出典:株式会社平凡社
Copyright (c) Heibonsha Limited, Publishers, Tokyo. All rights reserved.

大辞林 第三版

ごしらかわてんのう【後白河天皇】
1127~1192) 第七七代天皇(在位1155~1158)。名は雅仁。鳥羽天皇の第四皇子。即位の際、崇徳上皇と対立、保元の乱を生じた。二条天皇に譲位後、五代にわたって院政をおこない、平氏政権から鎌倉幕府権力の確立に至る変革期にあって朝廷権威の存続を巧みにはかった。1169年出家して法皇となり、造寺・造仏に尽くした。また、今様いまようを好み「梁塵秘抄りようじんひしよう」を撰した。

出典:三省堂
(C) Sanseido Co.,Ltd. 編者:松村明 編 発行者:株式会社 三省堂 ※ 書籍版『大辞林第三版』の図表・付録は収録させておりません。 ※ それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

日本大百科全書(ニッポニカ)

後白河天皇
ごしらかわてんのう
(1127―1192)
第77代の天皇(在位1155~58)。名は雅仁(まさひと)。法名行真。鳥羽(とば)天皇の第4皇子。母は藤原公実(きんざね)の女(むすめ)璋子(しょうし)(待賢門院(たいけんもんいん))。大治(だいじ)2年9月11日誕生。1155年(久寿2)即位。58年(保元3)守仁(もりひと)親王(二条(にじょう)天皇)に譲位。以後69年(嘉応1)の出家のあとも、上皇・法皇として、没するまでの30年余りの間、二条、六条(ろくじょう)、高倉(たかくら)、安徳(あんとく)、後鳥羽(ごとば)天皇の5代にわたって院政を行った。
 後白河天皇の即位は、異母弟の近衛(このえ)天皇が17歳の若さで没した後を受けて、29歳で即位するという異例のものであった。このとき鳥羽法皇は、寵姫(ちょうき)美福門院(びふくもんいん)(藤原得子)の猶子(ゆうし)となっていた守仁親王に皇位を伝えようとし、その手順として親王の父である後白河天皇を即位させたのである。このことは皇位継承についての崇徳(すとく)上皇の望みを完全に断つものであった。そのため翌1156年鳥羽法皇が没すると、崇徳上皇方と後白河天皇方との間に武力衝突が起こったが、天皇方は、源義朝(よしとも)、平清盛(きよもり)らの活躍で勝利を収めた(保元(ほうげん)の乱)。天皇は信西(しんぜい)(藤原通憲(みちのり))を重用して政治を取り仕切らせ、乱後、新制七か条を制定し、記録所を設置して荘園(しょうえん)整理を行い、また寺社勢力の削減を図ろうとした。やがて親政3年にして天皇は守仁親王(二条天皇)に譲位し、上皇として院政を開始した。その翌59年(平治1)、信西に反感を抱く人々によるクーデターが起こった(平治(へいじ)の乱)。これは清盛の武力によって決着がつけられ、後白河上皇は主導権を握ることができなかった。こののち二条天皇も独自の立場を示して、かならずしも上皇の意のごとくにはならなかった。上皇は清盛を貴族社会に引き立ててその勢力を利用しようとしたが、やがて平氏の勢力が強大になると、今度は逆にその排除を企てるようになった。69年(嘉応1)出家して法皇となってからは、院近臣の強化、延暦(えんりゃく)寺や東大寺の僧兵の利用などにより清盛を除こうとした。77年(治承1)には、院近臣による平氏打倒の謀議が発覚、近臣数名が平氏によって処罰された(鹿ヶ谷(ししがたに)事件)。しかしその後も法皇は平氏追及の手を緩めず、摂関(せっかん)家に嫁していた清盛の女盛子が死ぬと、盛子の伝領していた摂関家領を没収し、また宮廷人事においても清盛の意向を無視したやり方を続けた。そのためついに79年11月、法皇は清盛によって鳥羽殿に幽閉された。しかし翌年には平家打倒を目ざして諸国の源氏が挙兵、以後、福原(ふくはら)(神戸市)遷都と京都還都、平氏の都落ち、木曽義仲(きそよしなか)の入京と敗死、源義経(よしつね)の入京と没落、平氏の滅亡と鎌倉幕府の成立と、時局はめまぐるしく変転する。約1年後に幽閉を解かれた法皇は、変転する時局に巧みに処して、没するまで「治天(ちてん)の君(きみ)」の地位を保持し続けた。平氏の都落ちに際してはいち早く延暦寺に逐電して同行せず、また入京した義仲と源行家(ゆきいえ)に平氏追討を命ずる一方で、源頼朝(よりとも)の功績を第一としてその上洛(じょうらく)を促すなど、法皇の老獪(ろうかい)さは、頼朝をして「日本第一の大天狗(てんぐ)」といわしめたほどであった。頼朝は法皇の生存中には、ついに彼のもっとも強く希求した征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)の称号を得ることができなかったのである。
 後白河院による院政は、11世紀末以来の白河上皇および鳥羽上皇による院政の継承であると同時に総仕上げであった。院庁(いんのちょう)が太政官(だいじょうかん)と並ぶ国政機関となり、新制という新しい形式で国政上の重要事項の徹底が図られるようになり、院の周辺に膨大な荘園群が集積されると同時に、治天の君はすべての荘園本所に超越する高権をもつ専制君主として位置づけられた。後白河院に近侍した信西は、院の専制的性格を、「あえて人の制法に拘(かかわ)らず、必ずこれを遂ぐ」と評している。後白河院は、絶えて久しかった大内裏(だいだいり)造営を行い、また蓮華王院(れんげおういん)(三十三間堂)、長講堂(ちょうこうどう)などを造営し、あるいは高野山(こうやさん)、比叡(ひえい)山などにもしばしば行幸し、熊野参詣(さんけい)は34回に及んだと伝えられる。また院は、清盛の福原の別荘で宋(そう)人を引見したことがあったが、それは当時の貴族たちからは「天魔のしわざ」と非難されることであった。さらに、院は笛の名手でもあったが、当時の流行歌である今様(いまよう)に対して異常なほどの執心ぶりを示した。名人上手と聞けば、身分の高下を問わず、遊女、傀儡子(くぐつ)などをも召し出して、夜を徹して歌い、声をつぶしたことも一度ならずあったという。そしてその歌謡を分類集成した『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』10巻および『梁塵秘抄口伝(くでん)集』10巻を自ら撰述(せんじゅつ)している。建久(けんきゅう)3年3月13日没。66歳。御陵は京都市東山区三十三間堂廻(まわ)り町の法住寺陵。[山本博也]
『川崎庸之編『日本人物史大系 1』(1961・朝倉書店) ▽京都市編『京都の歴史 第2巻』(1971・学芸書林)』

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

367日誕生日大事典

後白河天皇 (ごしらかわてんのう)
生年月日:1127年9月11日
平安時代後期の第77代の天皇
1192年没

出典:日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」
(C) Nichigai Associates, Inc., All rights reserved.
それぞれの項目は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

精選版 日本国語大辞典

ごしらかわ‐てんのう ゴしらかはテンワウ【後白河天皇】
第七七代天皇。鳥羽天皇の第四皇子。母は待賢門院璋子。名は雅仁。法名、行真。久寿二年(一一五五)即位。保元三年(一一五八)譲位し、天皇五代、三四年の間、院政を行なう。在位中保元の乱があり、また平氏政権から鎌倉幕府の確立にいたる変動期にあって、術策を用いて朝廷の威信保持に努めた。仏教に深く帰依(きえ)し、今様を好み、「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」を撰集。大治二~建久三年(一一二七‐九二

出典:精選版 日本国語大辞典
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

後白河天皇」の用語解説はコトバンクが提供しています。

後白河天皇の関連情報

関連キーワード

ザンギー朝ザンギー朝講史コンラート[3世]宋代美術張邦昌高宗(中国、南宋)水石宋(中国の王朝(960~1279))宋銭

他サービスで検索

「後白河天皇」のスポンサー検索

(C)The Asahi Shimbun Company /VOYAGE GROUP, Inc. All rights reserved.
No reproduction or republication without written permission.