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平清盛【たいらのきよもり】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

平清盛
たいらのきよもり
[生]元永1(1118)
[没]治承5(1181).閏2.5. 京都
平安時代末期の武将。忠盛の長子。母は祇園女御の妹という。仁平3 (1153) 年父が没し,平氏の棟梁となった。保元1 (56) 年の乱で源義朝とともに後白河天皇側について勝利を得,続く平治1 (59) 年の乱では源義朝らを追討し,源氏一族を政界から追った (→保元・平治の乱 ) 。仁安2 (67) 年従一位太政大臣,承安1 (71) 年娘徳子を上皇の猶子 (ゆうし) として入内させ,徳子は言仁親王 (のちの安徳天皇) をもうけた。日宋貿易や三十余国の知行国をもつことによって富を得,栄華をきわめたが,貴族化したため,武士の支持を失い,宮廷内でも多くの反感を買った。治承4 (80) 年源頼政以仁王を奉じて挙兵したのに始り,源頼朝,義仲らが挙兵。この間福原への遷都を強行した。源氏軍との戦いが続き,平氏軍不振のうちに病没日については4日説がある。仁安2年平氏の繁栄を祈願し厳島神社に納めたいわゆる『平家納経』 (33巻,国宝) は装飾経としてもすぐれていて名高い。

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デジタル大辞泉

たいら‐の‐きよもり〔たひら‐〕【平清盛】
[1118~1181]平安末期の武将。忠盛長子。通称、平相国・入道相国。法号、海。保元の乱平治の乱で躍進し、源氏の勢力を抑えて従一位太政大臣となった。対宋貿易を振興し、六波羅政権を樹立。娘徳子高倉天皇とし、その子安徳天皇即位により皇室外戚としてを振るった。のち、反平氏勢力との内乱のさなか、熱病で没した。
山田美妙の歴史小説。明治43年(1910)刊行。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

平清盛 たいらの-きよもり
1118-1181 平安時代後期の武将。
元永元年生まれ。平忠盛の長男。白河法皇の落胤(らくいん)とする説もある。平治(へいじ)の乱で源氏の勢力を一掃し,後白河上皇や二条天皇信任をえる。仁安2年従一位,太政(だいじょう)大臣となり翌年出家。娘の徳子を高倉天皇の中宮とし,平氏一門で官職を独占するが,鹿ケ谷(ししがたに)事件を契機後白河法皇との対立がふかまり,治承(じしょう)3年法皇を閉し,政権を完全掌握する。以仁(もちひと)王や諸国の源氏の平氏打倒の挙兵にあうなか,治承5年閏(うるう)2月4日没した。64歳。通称は平相国,六波羅殿,六波羅入道。法名は静(浄)海。

出典:講談社
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デジタル大辞泉プラス

平清盛
2012年放映のNHK大河ドラマ原作なしのオリジナル作品。平安末期の貴族政治の時代に、新興勢力の武士・平氏のもとで育てられた少年清盛が、成長し日本の覇者を目指す姿を描く。脚本:藤本有紀。音楽:吉松隆。出演:松山ケンイチ、中井貴一、玉木宏、松田翔太ほか。松山ケンイチは本作の演技により、第67回日本放送映画芸術大賞最優秀主演男優賞を受賞

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世界大百科事典 第2版

たいらのきよもり【平清盛】
1118‐81(元永1‐養和1)
平安末期の武将。平忠盛嫡子。白河院の落胤(らくいん)といわれ,母は祇園女御(ぎおんのにようご)の妹とする説が有力。白河院の寵姫であった祇園女御妹が懐妊したまま忠盛に下賜され,生まれたのが清盛という。この生母は清盛生誕の翌々年に病没したらしい。通称〈平相国(へいしようこく)〉〈平禅門(へいぜんもん)〉,またその居所から〈六波羅殿(ろくはらどの)〉〈六波羅入道〉とも呼ばれた。
[軍事権門化]
 平忠盛が鳥羽院の近臣として築きあげた武将としての地位,西国の国守を歴任して蓄えた財力をもとに,忠盛死後,平家武士団の首長を継ぐ。

出典:株式会社平凡社
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大辞林 第三版

たいらのきよもり【平清盛】
1118~1181 平安末期の武将。忠盛の長男。通称、平相国。法号、浄海。白河法皇の落胤とも伝えられる。父の地位と遺産を受け継いで政界に進出。保元・平治の乱により対立勢力を一掃、従一位太政大臣となる。娘徳子を高倉天皇に入内させ、官職を一門で独占、知行三十余国に及ぶ平氏政権を樹立した。他方、地方武士に離反され、源頼朝ら反平氏勢力が挙兵、福原に遷都したが熱病のため没した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)

平清盛
たいらのきよもり
(1118―1181)
平安末期の武将。平忠盛(ただもり)の嫡男、実は白河(しらかわ)院の落胤(らくいん)といわれる。母は祇園女御(ぎおんのにょうご)の妹とする説が有力。元永(げんえい)元年誕生。祖父正盛、父忠盛が院近臣・受領(ずりょう)として蓄えた政治力・財力を背景に政界に台頭し、太政(だいじょう)大臣従(じゅ)一位まで昇進。軍事権門として政治権力を掌握し平氏政権を現出した。通称平相国(へいしょうこく)、六波羅殿(ろくはらどの)、入道相国、六波羅入道。法号清蓮、のち静(浄)海(じょうかい)[飯田悠紀子]

権力集中

1153年(仁平3)父忠盛の死没後、平家一門を率い武門棟梁(ぶもんのとうりょう)の一人として鳥羽(とば)院に仕える。56年(保元1)鳥羽院の死を契機に起こった保元(ほうげん)の乱では、畿内(きない)近国・西国(さいごく)の武士を率いて後白河(ごしらかわ)天皇方にくみし、勝利を収めた。少納言(しょうなごん)入道信西(しんぜい)と結んだ清盛は、以後権力伸張に意欲をみせ、59年(平治1)平治(へいじ)の乱では源義朝(よしとも)を破り、軍事権門としての地位を確立。ここに武家政権樹立への端緒を開いた。こののち清盛の官位昇進は目覚ましく、60年(永暦1)参議正三位(しょうさんみ)となり、武家出身として初めて公卿(くぎょう)に列した。67年(仁安2)にはついに太政大臣従一位の地位を得る。ときに清盛50歳。翌年病により出家、以後摂津(せっつ)福原(神戸市兵庫区)に引退するが、その後も一門の総帥として隠然たる勢力を保持し続けた。
 この間、清盛は摂関家への接近を図り、娘盛子を関白藤原基実(もとざね)の室としている。基実が1166年に病死すると、その遺領を盛子に継がせ、実質的に摂関家領を押領(おうりょう)することに成功。その後、盛子の妹寛子を基実の子基通(もとみち)の室とした。皇室関係では、妻時子の妹滋子(しげこ)(建春門院(けんしゅんもんいん))を後白河院にいれ、所生の皇子高倉(たかくら)天皇のもとへは娘徳子(とくこ)(建礼門院(けんれいもんいん))を入内(じゅだい)させた。1180年(治承4)徳子所生の皇子が即位(安徳(あんとく)天皇)するに及び、清盛は天皇外祖父の地位を獲得。かつて院政を支える支柱として政界に台頭してきた平氏は、いまや政治権力そのものへと転化しつつあった。[飯田悠紀子]

政権掌握

清盛およびその一門の繁栄は、朝廷内の官位独占、知行(ちぎょう)国や荘園(しょうえん)の集積という現象をもたらし、そのことがまた平氏一門の勢力伸張をいっそう促進させた。このような政治的・経済的基盤は、院・貴族に代表される旧勢力の基盤でもあった。そのため、平氏の進出によって旧勢力と平氏との間には対立摩擦が生じ始めた。1177年(治承1)の鹿ヶ谷(ししがたに)事件は、そうした対立が表面化した最初の事件である。これは院近臣による平氏倒滅の陰謀が露顕したものであるが、これには後白河院自身も荷担していると噂(うわさ)された。ついで79年6月に盛子が死ぬと、その遺領を院が没収、7月清盛嫡子重盛(しげもり)病死に際しては、その知行国を院が奪取するなど、後白河院の平氏への弾圧が強まった。同年11月清盛はついに福原を発して上洛(じょうらく)、院を幽閉してクーデターを敢行、反平氏と思われる貴族の政界からの駆逐を図った。ここに平氏は名実ともに政権を完全掌握することになる。
 しかし反平氏勢力の結集は寺院を核に進められ、しかも平氏政権本来の基盤であったはずの地方在地武士までがこれに加わり、1180年には以仁(もちひと)王の挙兵、ついで源頼朝(よりとも)・同義仲(よしなか)以下の挙兵が続いた。これに対し清盛は、福原遷都、南都焼打ちで対抗しようとしたが、かえって旧勢力の反感を買い、仏敵の汚名を着せられて孤立化を深めた。全国が内乱状態に陥るなかで、翌治承(じしょう)5年閏(うるう)2月4日、清盛は熱病に冒され、事態を憂慮しながら64歳の生涯を閉じた。[飯田悠紀子]

人となり

『平家物語』は、信仰心厚く、主に忠、親に孝を尽くす善の象徴として平重盛を描き出している。一方清盛はその重盛と対照的な人物として描かれており、その印象が強く人々の心をとらえている。しかし重盛も清盛も、当時を生きた武将の一人として、本質的には同じ生き方をしていたことは、史実をたどってみればわかるところである。
 父忠盛と同様、対宋(そう)貿易に熱心であった清盛は、摂津大輪田泊(おおわだのとまり)を修築して宋船がここまで入れるようにし、また伝説では安芸(あき)の音戸(おんど)ノ瀬戸を開いたともいわれる。父祖以来、瀬戸内の海民の組織化に熱心であった平氏の一族として、清盛もその意識は海に向かって開かれていたと思われる。また仏法に厚く帰依(きえ)していたが、南都焼打ちに象徴されるように、僧や寺社に対しては断固たる態度をとりうる人物でもあった。その意味では当時の自由人の一人であったととらえることができる。しかし、あるいはそうであるからこそ、中世武家政権の担い手としては、浪漫(ろうまん)的でありすぎたということもできよう。[飯田悠紀子]
『村井康彦著『平家物語の世界』(1973・徳間書店) ▽上横手雅敬著『平家物語の虚構と真実』(1973・講談社)』

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精選版 日本国語大辞典

たいら‐の‐きよもり【平清盛】
平安末期の武将。平忠盛の長子。白河法皇の落胤とされ、母は祇園女御の妹といわれる。父は平氏武士団の棟梁として白河・鳥羽院庁に仕え、海賊・僧兵の鎮圧に武功を挙げ、日宋貿易にも尽力。三六歳でその父の地位をつぎ、保元の乱で、源義朝とともに後白河法皇に味方し、平治の乱で義朝を破り、仁安二年(一一六七)従一位太政大臣となる。皇室の外戚となり、また貴族と姻戚関係を結び、全国の半ばをこえる知行国、五百余に及ぶ荘園、これと福原中心の対宋貿易の利益などを経済的基盤に六波羅政権を築く。さらに治承三年(一一七九)、クーデターにより完全独裁権を握る。しかしその施政の専横と苛酷とにより各地に反対勢力の蜂起を招き、治承・寿永の内乱を導いた。その処理に苦しみつつ熱病のため没す。元永元~治承五年(一一一八‐八一

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