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平忠盛【たいらのただもり】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

平忠盛
たいらのただもり
[生]永長1(1096)
[没]仁平3(1153).1.15.
平安時代末期の武将。正盛の子,清盛の父。永久1 (1113) 年強盗を捕えたで一躍従五位下に叙せられた。同年の永久の強訴にも父とともに活躍。大治4 (29) 年備前守であった忠盛は,山陽,南海道の海賊追捕を行なった。彼を任用した白河法皇が同年にし,鳥羽上皇が院政を開始すると正四位下に叙せられ,武名と財力 (国守歴任,およびとの貿易による富) とを背景に,院と密接な関係を結んで昇殿を望んだ。長承1 (32) 年得長寿院造営の賞として待望の内裏昇殿が許され,平氏政権の基盤を築いた。

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デジタル大辞泉

たいら‐の‐ただもり〔たひら‐〕【平忠盛】
[1096~1153]安末期の武将。正盛の子。清盛の父。白河鳥羽上皇信任が厚く、検非違使(けびいし)から刑部(ぎょうぶ)卿累進内昇殿を許された。日宋貿易により財力を得、公家的素養もあって平氏宮廷における地歩を築いた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

平忠盛 たいらの-ただもり
1096-1153 平安時代後期の武将。
永長元年生まれ。平正盛の子。平清盛の父。白河・鳥羽(とば)両上皇につかえる。長承元年得長寿院をつくった功により内昇殿をゆるされた。また山陽・南海両道の海賊を鎮圧,日宋(にっそう)貿易にも関係して平家繁栄の基礎をきずいた。歌人としても知られ,家集に「平忠盛集」がある。仁平(にんびょう)3年1月15日死去。58歳。

出典:講談社
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世界大百科事典 第2版

たいらのただもり【平忠盛】
1096‐1153(永長1‐仁平3)
平安末期の廷臣。讃岐守正盛の子。父についで白河上皇の寵を得,検非違使(けびいし),伯耆守,越前守,備前守を歴任。1123年(保安4)源為義とともに延暦寺衆徒の強訴をしりぞけ,29年(大治4)には山陽・南海両道の海賊を追捕。白河上皇が没すると引き続き鳥羽上皇の近臣として活躍。32年(長承1)得長寿院造進の功により内昇殿(うちのしようでん)を許される。翌年鳥羽院領肥前神崎荘の預所(あずかりしょ)の立場を利用して日宋貿易関与

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大辞林 第三版

たいらのただもり【平忠盛】
1096~1153 平安末期の武将。正盛の子。清盛の父。白河・鳥羽院の寵を得て累進、山陽・西海の海賊を討って平氏の名を高め、刑部卿に進んで内昇殿を許された。日宋貿易によって一門繁栄の基礎を築く。

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日本大百科全書(ニッポニカ)

平忠盛
たいらのただもり
(1096―1153)
平安末期の武将。平正盛(まさもり)の長男。清盛の父。白河(しらかわ)・鳥羽(とば)両院政のもとで軍事力の中心になって活躍した。1113年(永久1)に18歳で盗賊を追捕(ついぶ)して従(じゅ)五位下、左衛門尉(さえもんのじょう)になったのをはじめ、29年(大治4)に山陽・南海両道の、35年(保延1)には西海(さいかい)の海賊追討使に任命されて鎮圧するなど、武名を高めた。また、白河・鳥羽法皇の寵(ちょう)を得て、越前(えちぜん)、伊勢(いせ)、河内(かわち)、備前(びぜん)、美作(みまさか)、播磨(はりま)、但馬(たじま)などの国守を歴任する間に、西国地方の武士と主従関係を形成して勢力を拡大し、経済力を築いた。院庁(いんのちょう)にも進出して院領荘園(しょうえん)の支配にも腕を振るい、九州の神崎荘(かんざきのしょう)(佐賀県神埼(かんざき)市)で日宋(にっそう)貿易を行ったりした。そうした経済力を背景に、32年(長承1)鳥羽法皇のために得長寿院(とくちょうじゅいん)を造進し、その功によって内裏(だいり)での昇殿を許され、やがて刑部卿(ぎょうぶきょう)にまで進んだ。しかし、忠盛の経済的隆盛と急激な昇進は貴族層の反感も招き、忠盛が斜視であったため「伊勢の瓶子(へいし)(平氏)は酢甕(すがめ)(眇(すがめ))なり」と嘲弄(ちょうろう)されたり、殿上で豊明節会(とよのあかりのせちえ)の夜に闇(やみ)討ちされかけて反対に忠盛が威圧したという話などが残っている。仁平(にんぺい)3年正月15日、58歳で没したとき、左大臣藤原頼長(よりなが)は、「数国の吏を経、富巨万を累(かさ)ね、奴僕(ぬぼく)国に満ち、武威人にすぐ」と評し、そのひととなりは慎み深く奢侈(しゃし)な行いはなかったと、その死を悼んでいる。平氏繁栄の基礎を着実に築き上げた一生であった。歌才もあり『平忠盛朝臣(あそん)集』などがある。[田中文英]

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精選版 日本国語大辞典

たいら‐の‐ただもり【平忠盛】
平安末期の武将。正盛の子。清盛の父。白河院の寵を得て、延暦寺衆徒の強訴を退け、山陽・南海の海賊を討つなど功をあげ、鳥羽上皇の時、内昇殿を許された。また、日宋貿易に尽力し平氏繁栄の基をつくった。歌人としても知られる。永長元~仁平三年(一〇九六‐一一五三

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