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島津氏【しまづうじ】

日本大百科全書(ニッポニカ)

島津氏(しまづうじ)
しまづうじ
南九州の有力な武家。惟宗忠久(これむねただひさ)は、源頼朝(みなもとのよりとも)によって、1185年(文治1)近衛家(このえけ)所領の島津荘(しまづのしょう)の下司職(げししき)に任命され、1197年(建久8)薩摩(さつま)、大隅(おおすみ)の、のち日向(ひゅうが)の各守護職に任命された。彼は伊勢(いせ)、信濃(しなの)などでも所領をもっていたが、島津の荘園名をとって苗字(みょうじ)とし、島津氏の初代となった。南九州へ入部したのは3代久経(ひさつね)以降であるが、これより先に一族らを島津荘へ分置し、領主制の基礎をつくった。5代貞久(さだひさ)は、1203年(建仁3)以降停止されていた薩摩、大隅、日向の守護職を回復、氏久(うじひさ)に大隅国守護職、師久(もろひさ)に薩摩国守護職を分割して譲った。1404年(応永11)氏久の子元久(もとひさ)は、日向、大隅各守護職を得、さらに薩摩守護職もあわせ、鹿児島清水(しみず)城を居城に守護領国制を展開した。文明(ぶんめい)期(1469~87)以降、戦国騒乱を迎えたが、1550年(天文19)一族の伊作(いざく)、相州(そうしゅう)家の忠良(ただよし)、貴久(たかひさ)が鹿児島内城(うちじょう)に入り、戦国大名家として再興した。貴久と子の義久(よしひさ)、義弘(よしひろ)らは領国を再統一し、すぐ九州を征覇したが、豊臣秀吉(とよとみひでよし)に敗れた。秀吉に従い本領を安堵(あんど)され、文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役に従った。関ヶ原の戦いで義弘が西軍に属したが、家久(いえひさ)は1602年(慶長7)本領を安堵され、近世大名となった。松平(まつだいら)姓を与えられ、琉球(りゅうきゅう)を付庸国(ふようこく)とし、72万石余の本国持(ほんくにもち)大名として重きをなし、幕末には斉彬(なりあきら)らが出、討幕の志士を輩出、維新の原動力となった。維新後華族に列し、本家は公爵となり、5分家は男爵となった。なお、江戸時代以来、出自を清和源氏(せいわげんじ)とし、忠久を頼朝御落胤(ごらくいん)とする伝承が広く行われている。[三木 靖]
『三木靖著『薩摩島津氏』(1972・新人物往来社)』

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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