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島崎藤村【しまざき とうそん】

美術人名辞典

島崎藤村
詩人・小説家。長野県生。本名は春樹。明治学院在学中に洗礼を受けるとともに文学への関心を強め、北村透谷らと「文学界」を創刊。また詩集若菜集』で浪漫派詩人として大きな業績を残した。のち散文に転じ、『破戒』で自然主義の小説として出発する。昭和四年から「中央公論」に連載された『夜明け前』は自伝的藤村文学の集大成となった。芸術院会員。昭和18年(1943)歿、72才。

出典:(株)思文閣

朝日新聞掲載「キーワード」

島崎藤村
筑摩(ちくま)県馬籠(まごめ)村(現岐阜県中津川市)出身。女学校などで教師をした後、小説「破戒」「春」などを発表し、作家としての地歩を固める。日本ペンクラブ初代会長。山陰来訪時は「夜明け前」の構想を用意している時期だった。インターネット上の電子図書館「青空文庫」で「山陰土産」の全文を読むことができる。
(2017-06-11 朝日新聞 朝刊 鳥取全県・1地方)

出典:朝日新聞掲載「キーワード」

デジタル大辞泉

しまざき‐とうそん【島崎藤村】
[1872~1943]詩人・小説家。筑摩県馬籠村(のちの長野県神坂村。山口村など名称の変更を経て、現在は岐阜県中津川市)の生まれ。本名、春樹。北村透谷らの「文学界」創刊に参加。詩集「若菜集」を発表して、浪漫主義詩人として出発。小説「破戒」によって作家としての地位を確立、自然主義文学の先駆となる。ほかに詩集「落梅集」、小説「」「」「新生」「夜明け前」など。
平野謙による評論。昭和22年(1947)刊行。

出典:小学館
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

島崎藤村 しまざき-とうそん
1872-1943 明治-昭和時代前期の詩人,小説家。
明治5年2月17日生まれ。島崎正樹の4男。東北学院,小諸義塾などの教師をつとめる。明治26年北村透谷らの「文学界」創刊に参加。30年「若菜集」で新体詩人として出発し,ついで「一葉舟(ひとはぶね)」「落梅集」を刊行。39年「破戒」で自然主義文学の代表的作家となり,「新生」「夜明け前」などを発表した。昭和18年8月22日死去。72歳。長野県出身。明治学院卒。本名は春樹。
【格言など】遂に,新しき詩歌の時は来りぬ(「藤村詩集」)

出典:講談社
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世界大百科事典 第2版

しまざきとうそん【島崎藤村】
1872‐1943(明治5‐昭和18)
詩人,作家。長野県生れ。本名春樹。別号古藤庵無声など。旧中山道馬籠宿で本陣,庄屋,問屋を兼ねた島崎正樹の四男として生まれた。当時,生家は明治維新の改革にともなって没落しつつあり,彼は1881年修学のため上京後,知人の家庭で成長した。91年明治学院(現,明治学院大)を卒業,そこで受けたキリスト教や西洋文学の影響で文学に志し,婦人啓蒙誌《女学雑誌》に寄稿を始めた。93年,生涯の先達として仰いだ北村透谷や,星野天知らと雑誌《文学界》を創刊,最初は透谷にならって劇詩を書いたが,やがて抒情詩に進み,仙台の東北学院教師時代に発表した詩をまとめて《若菜集》(1897)を刊行,新体詩人として名声を博した。

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大辞林 第三版

しまざきとうそん【島崎藤村】
1872~1943) 詩人・小説家。岐阜県(旧長野県馬籠)生まれ。本名、春樹。明治学院卒。北村透谷らと「文学界」を創刊。「若菜集」により浪漫主義詩人としての名声を博したが、のち小説に移り自然主義の代表的作家となった。小説「破戒」「春」「家」「新生」「夜明け前」など。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

島崎藤村
しまざきとうそん
[生]明治5(1872).2.17. 長野,馬籠
[没]1943.8.22. 大磯
詩人,小説家。本名,春樹。 1891年明治学院卒業。 93年北村透谷らと『文学界』を創刊,浪漫主義文学運動の渦中に身を投じ,青春彷徨の日を過した。 97年近代詩の黎明を告げた詩集『若菜集』を出版,1901年の『落梅集』にいたる間,詩壇第一人者として君臨。 04年それまでの詩集の合本藤村詩集』を刊。その後詩作を絶ち,06年小説『破戒』により自然主義文学の出発を導き,その後も『春』 (1908) ,『』,『桜の実の熟する時』 (14~18) ,『新生』を経て,『夜明け前』の大作を完成。 36年ペンクラブ会長,40年芸術院会員。『東方の門』 (43~) 執筆中に急逝した。常に新しいものへの情熱と知性の調和を失わない求道者的作家であった。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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日本大百科全書(ニッポニカ)

島崎藤村
しまざきとうそん
(1872―1943)
詩人、作家。本名春樹(はるき)。別号古藤庵無声(ことうあんむせい)。明治5年2月17日(旧暦)筑摩(ちくま)県(現長野県)の旧中山道(なかせんどう)馬籠宿(まごめしゅく)(現在は岐阜県中津川市に所在)で本陣、庄屋(しょうや)、問屋(といや)を兼ねた島崎正樹の四男として生まれる。島崎家は正樹で17代目の旧家であったが、藤村の出生時は明治維新に伴う諸改革で没落しつつあり、1881年(明治14)数え10歳で修学のため上京した彼は以後親戚(しんせき)や知人の家で成長した。1891年明治学院卒業。在学中に受洗したキリスト教やヨーロッパ文学の影響で文学に志し、巌本善治(いわもとよしはる)主宰の『女学雑誌』に寄稿を始め、かたわら明治女学校の教師となったが、許婚(いいなずけ)のある教え子への愛に苦しみ、教会を離れて、1893年関西放浪の旅に出た。[十川信介]

詩人藤村

同年、星野天知(ほしのてんち)や、終生先達と仰いだ北村透谷(きたむらとうこく)らの『文学界』創刊に参加、透谷の影響で劇詩を書いたが、やがて新体詩に転じ、仙台の東北学院に赴任したころから発表した詩編をまとめて『若菜集』(1897)を刊行、詩人としての名声を高めた。以下『一葉舟(ひとはぶね)』『夏草(なつくさ)』(ともに1898)、『落梅集(らくばいしゅう)』(1901)の3詩集を出したが、しだいに自分の詩想と叙情詩の形式との差を感じ始め、信州の小諸義塾(こもろぎじゅく)の教師となり結婚したころ(1899)から自然と人生に対する観察を深めて小説執筆に向かった。[十川信介]

作家的地位の確立

『破戒(はかい)』(1906)によって作家的地位を確立した彼は、次の長編『春』(1908)において『破戒』流のフィクションを捨て、『文学界』時代の実生活をもとに自伝的小説に転じ、田山花袋(たやまかたい)の『蒲団(ふとん)』(1907)とともにわが国の自然主義文学の進路を決定した。第三の長編『家』(1910~1911)はこの方向を徹底させた作品で、彼と一族をモデルに旧家の退廃した論理を写し出し、自然主義を代表する傑作となった。この小説を執筆中に妻を失い、黙々として育児と執筆に励んでいた彼は、家事手伝いにきていた姪(めい)と過失を犯し、背徳を恥じて1913年(大正2)単身フランスに渡った。やがて『新生』(1918~1919)に描かれるこの事件は、観察を武器としてあらゆるものを対象化してきた彼の作家生活が生んだ「信のない心」や、煩雑な日常生活の倦怠(けんたい)感がもたらしたものであった。パリの生活は異国への「流罪」であるとともに、未知の世界、とくにカトリック的な価値観への眼(め)を開かせ、日本の近代化の考察や東西の比較に進ませる原動力となった。滞仏2年目、周囲の環境になじみ『桜の実の熟する時』(1914)執筆や故国への通信も軌道にのったころ第一次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)し、一時フランス中部の都市リモージュに避難したが、前途の不安は強まり、経済的困窮も加わって、1916年(大正5)、3年ぶりに故国の土を踏んだ。[十川信介]

再生への機運

帰国後の彼はフランス紀行『海へ』(1918)によって文明批評を試みる一方、『新生』を『東京朝日新聞』に連載、背徳を告白して退廃からのよみがえりを描こうとした。この小説は世間的にも大きな反響をよび、作家生命の危機も予想されたが、世間はむしろ彼の勇気と作家的「誠実」を評価し、彼は生涯最大の難関を切り抜けた。4人の子を育て、ひっそりと謹慎生活を続けた彼が新たな活動を開始するのは、1921年に生誕50年を文壇で祝われてからである。わずか10号で終わりはしたが、女性の目覚めを促す雑誌『処女地』の創刊(1922)や、長男楠雄(くすお)を郷里馬籠に帰農させ、新しい島崎家を興したことには、「若い生命」に期待する彼の気持ちが表れている。関東大震災や思想取締りなどの社会不安のなかで「明日」を思う彼の姿はのちに小説『嵐(あらし)』(1926)に描かれるが、彼自身も『処女地』同人であった加藤静子に求婚し(1928年結婚)、「第二の青春」に向かって身をおこした。[十川信介]

近代化への問題

従来の問題意識の中心には、個人を圧迫する「家」とその原点としての父の問題があったが、この時期、それは父を座敷牢(ざしきろう)の中で悶死(もんし)させた「黒船」、西洋の衝撃とわが国の近代化の問題に広がり始めていた。郷里で宿場役人の古記録『大黒屋日記』を発見した彼は、そこに息づく街道筋の生活を基盤として、近代日本の胎動期の苦しみを描いた大作、『夜明け前』(1929~1935)の連載を開始した。この小説は彼が完成した最後の長編で、1936年(昭和11)に朝日文化賞を受けた。
 1935年、日本ペンクラブが結成され、初代会長に就任した彼は翌年、夫人同伴でアルゼンチンの国際ペンクラブ大会に出席、帰途アメリカ、フランスに立ち寄った。この旅の感想は『巡礼』(1937)に記されており、内外ともに騒然たる時勢のなかで彼が自覚したのは、外来文化を同化し続けてきた日本文化の粘着性と、アジアにおけるわが国の「高い運命」であった。その認識をもとに『東方の門』(1943~)を『中央公論』に連載し始めたが、その後まもない昭和18年8月22日、脳溢血(のういっけつ)のため大磯(おおいそ)の別邸で死去、同地の地福寺に葬られた。1940年芸術院会員。彼の特質は自我を抑圧する「家」への曖昧(あいまい)だが執拗(しつよう)な抵抗にあり、自己の問題を掘り下げて日本近代化の問題に進み出た点にその文学的道程がある。作品は多岐にわたり、詩、小説のほか随筆『新片町より』(1909)、童話『幼きものに』(1917)など数多い。[十川信介]
『『島崎藤村全集』17巻・別巻1(1966~1971・筑摩書房) ▽瀬沼茂樹著『評伝島崎藤村』(1981・筑摩書房) ▽平野謙著『島崎藤村』(新潮文庫) ▽伊東一夫編『島崎藤村事典』(1982・明治書院) ▽十川信介編『鑑賞日本現代文学4 島崎藤村』(1982・角川書店) ▽『新潮日本文学アルバム4 島崎藤村』(1984・新潮社) ▽滝藤満義著『島崎藤村 小説の方法』(1991・明治書院) ▽佐々木雅發著『島崎藤村 『春』前後』(1997・審美社)』

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