Rakuten infoseek

辞書

岡藩【おかはん】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

岡藩
おかはん
江戸時代,豊後国 (大分県) 直入郡岡地方を領有した外様小藩。文禄2 (1593) 年大友氏除封の際,中川秀成が7万石を受けて以来,廃藩置県まで存続。江戸城柳間詰。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

藩名・旧国名がわかる事典

おかはん【岡藩】
江戸時代豊後(ぶんご)国直入(なおいり)郡竹田(現、大分県竹田市)に藩庁をおいた外様(とざま)藩。豊後国では最大の藩。藩校は修道館(しゅうどうかん)。1594年(文禄3)、中川秀成(ひでなり)が播磨(はりま)国三木(みき)から7万石で入封(にゅうほう)して立藩。名曲「荒城の月」(作詞は土井晩翠(どいばんすい)、作曲は滝廉太郎(たきれんたろう))で知られる岡城に藩庁をおき、以後、幕末まで中川氏13代が治めた。特産品である大豆の生産と錫(すず)・鉛(なまり)の鉱業が藩財政を支え、2代久盛(ひさもり)のときに幕府の許可により銭座(ぜにざ)を城下に設置した。1726年(享保(きょうほう)11)に輔仁堂(ほじんどう)を開設、76年(安永(あんえい)5)これを改組して藩校の由学館とし、1868年(明治1)には武館の経武館と統合して修道館とした。1811年(文化8)には大規模な一揆が起きている。藩医の家に生まれた田能村竹田(たのむらちくでん)は文人画家として有名。1871年(明治4)の廃藩置県により、岡県を経て大分県に編入された。

出典:講談社
(C)Kodansha 2011.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

世界大百科事典 第2版

おかはん【岡藩】

出典:株式会社平凡社
Copyright (c) Heibonsha Limited, Publishers, Tokyo. All rights reserved.

日本大百科全書(ニッポニカ)

岡藩
おかはん
江戸時代、豊後(ぶんご)国竹田(大分県竹田市)地方を領有した藩。外様(とざま)大名。7万440石。大友吉統(よしむね)の豊後除国の翌年、1594年(文禄3)に中川秀成(ひでなり)が入封し、岡村に城館を置いたことにより成立。城下は竹田村に配置。秀成のあと久盛、久清、久恒(ひさつね)、久通(ひさみち)、久忠、久慶(ひさよし)、久貞、久持、久貴(ひさたか)、久教(ひさのり)、久昭、久成と13代280年にわたり在封、明治維新に至る。1871年(明治4)7月岡県、同年11月大分県に編入。領地は大野、直入(なおり)、大分の3郡にまたがり、丘陵地の畑作中心で大豆が特産品。また、領内尾平(おびら)、木浦(きうら)両鉱山は銀、錫(すず)、鉛などを産出し、1637年(寛永14)から2年間城下町竹田の古(ふる)町に幕府の許可により銭座を設置している。18世紀末には、財政窮乏打開のために御勝手方横山甚助(じんすけ)を中心に積極的増税を目ざす「新法」が実施された。しかし、1811年(文化8)12月、領民はその全廃を求め、打毀(うちこわし)を伴う一揆(いっき)を展開。これが翌年にかけて豊後一円、豊前(ぶぜん)にまで波及し「広域闘争」の典型といわれる岡藩文化大一揆となった。文教面では、1726年(享保11)に輔仁(ほじん)堂を開設、それが1776年(安永5)には拡張され由学館となり、のち武館としての経武館も設立された。この両館は1868年(明治1)に統合され修道館(しゅうどうかん)となった。1787年(天明7)に設置された医学校博済館の教授として唐橋(からはし)世済(君山)が招かれ、その門下に日本南画の開祖田能村竹田(たのむらちくでん)など、多くの人材が輩出した。[豊田寛三]

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

岡藩」の用語解説はコトバンクが提供しています。

岡藩の関連情報

他サービスで検索

「岡藩」のスポンサー検索

(C)The Asahi Shimbun Company /VOYAGE GROUP, Inc. All rights reserved.
No reproduction or republication without written permission.