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岡山藩【おかやまはん】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

岡山藩
おかやまはん
江戸時代,備前国(岡山県)御野郡地方を領有した藩。備前藩ともいう。藩主は外様大名池田氏,31万5000石。戦国大名浦上氏の家臣であった宇喜多氏岡山城に在城してこの地を支配していたが,関ヶ原の戦いで除封。のち小早川秀秋がその旧領を領有,慶長7(1602)年秀秋除封により,姫路藩主池田輝政の加増地となり,その二男忠継に付せられ,慶長18(1613)年分知して岡山藩を立てた。寛永9(1632)年鳥取藩池田光政と幼少の岡山藩主池田光仲との間で国替を命じられ,光政以降 10代を経て,明治維新にいたる。この間寛文12(1672)年池田政言(まさこと)に鴨方藩 2万5000石,池田輝録(てるとし)に生坂藩 1万5000石を分知,以後廃藩置県にいたる。江戸城大広間詰。

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藩名・旧国名がわかる事典

おかやまはん【岡山藩】
江戸時代備前(びぜん)国岡山(現、岡山県岡山市)に藩庁をおいた外様(とざま)藩。藩校は閑谷(しずたに)学校。岡山城主の宇喜多秀家(うきたひでいえ)関ヶ原の戦いで没落後、1600年(慶長(けいちょう)5)に小早川秀秋(こばやかわひであき)が入封(にゅうほう)したが、嗣子(しし)がなく断絶。03年、姫路藩池田輝政(てるまさ)の次男忠継(ただつぐ)が28万石で入封、以後明治維新まで池田氏12代が続いた。32年(寛永(かんえい)9)に2代の忠雄(ただかつ)が没すると、嫡子光仲(みつなか)が幼少のため、鳥取藩主で光仲の従兄弟の池田光政(みつまさ)との間に国替(くにがえ)が行われ、光政が岡山藩主となった。光政は儒学者熊沢蕃山(くまざわばんざん)を重用して藩政改革を断行するとともに、藩学校の花畠(はなばたけ)教場を設立したほか、庶民教育を目的に100ヵ所以上の手習所を領内各地に設置、のちに統合して閑谷学校を開いた。また新田開発、治水工事、塩田開発、後楽園の設営などが進められ、藩政は光政とその子綱政(つなまさ)の頃に確立、藩領は備中(びっちゅう)国4郡の一部を含む31万5000石余に達した。幕末には、9代藩主茂政(もちまさ)が水戸藩徳川斉昭(とくがわなりあき)の9男で徳川慶喜(とくがわよしのぶ)の弟であったことから微妙な立場に追い込まれたが、茂政隠居後の政詮(まさあき)(のち章政(あきまさ))は倒幕に踏み切り、奥羽へも転戦した。1871年(明治4)の廃藩置県で岡山県となった。◇備前藩ともいう。

出典:講談社
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世界大百科事典 第2版

おかやまはん【岡山藩】
備前国(岡山県)岡山に藩庁を置いた外様大藩。歴代藩主は池田氏で,備前一国28万9000石と備中領分2万6000石を合わせて31万5000石を領知した。戦国大名宇喜多秀家が関ヶ原の戦で没落し,代わって入城した小早川秀秋も,1602年(慶長7)卒去し無嗣のため断絶した。宇喜多・小早川両氏とも備前・美作両国などで約50万石を領したが,その末路は悲運であった。03年岡山城主になった池田忠継(姫路城主池田輝政の次男)以降,12代268年にわたって池田氏による領知が廃藩までつづいた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)

岡山藩
おかやまはん
備前(びぜん)国(岡山県)を中心とする外様(とざま)藩。備前藩ともいう。岡山城主宇喜多秀家(うきたひでいえ)が関ヶ原の戦いで没落し、小早川秀秋(こばやかわひであき)が備前、美作(みまさか)を賜って岡山藩主となる。秀秋の死後、1603年(慶長8)姫路藩主池田輝政(てるまさ)の次男忠継(ただつぐ)が備前28万石を賜り、忠継の異母兄利隆(としたか)が「備前監国」として岡山に在城した。1613年忠継が藩主となったが、1615年(元和1)没し、忠継の弟で淡路藩主忠雄(ただかつ)が岡山藩主となる。寛永(かんえい)年間(1624~44)新田開発、用排水工事をおこし領国経営に尽力。1632年(寛永9)忠雄が死去し、嫡子光仲は鳥取藩主となり、鳥取藩主池田光政が岡山藩主となった。光政は将軍徳川家光(いえみつ)の信任を得、幕府の寛永政治に倣って寛永の改革を実施する。1647年(正保4)熊沢蕃山(くまざわばんざん)によって儒学に開眼し、「仁即忠」の政治理念を抱く。1654年(承応3)洪水による大飢饉(ききん)が起こると、仁政理念に基づき飢人救済の徹底を期すとともに、これを契機に藩政改革を断行、地方知行(じかたちぎょう)制を改め、郡方(こおりかた)支配を刷新する。ついで寺院、神社の整理統合を行い、郡中手習所、藩学校、閑谷黌(しずたにこう)を設立し儒教主義の教育を行った。1672年(寛文12)隠退し、嫡子綱政がたつ。延宝(えんぽう)の飢饉と禁裏造営の国役で財政危機に陥り、小仕置、郡肝煎役(こおりきもいりやく)を設け、藩政改革を断行、天和(てんな)~元禄(げんろく)年間(1681~1704)に至って藩政は確立し、大規模な藩営新田、後楽園、曹源寺をつくり、閑谷黌を完成する。岡山城下町、諸郡ともに繁栄したが、18世紀末以後、城下町は株仲間の制約から衰微し、諸郡も貧富の差が拡大し、散田手余地(さんでんてあまりち)が増加した。しかし児島(こじま)郡では新田、塩田の開発が相次ぎ、塩は備前の特産物の首位を占めるに至る。1853年(嘉永6)黒船来航以後、藩は城下町や児島郡の豪商、地主たちと結んで安政(あんせい)の改革を断行し、洋式軍制の整備を進めた。また、藩主茂政(しげまさ)は尊王翼覇の立場から朝廷、幕府、長州の間にたって国事周旋に奔走する。1866年(慶応2)茂政の実兄徳川慶喜(よしのぶ)が将軍に就任し、茂政は討幕に踏み切ることができず、支藩鴨方(かもがた)藩主章政(あきまさ)を新藩主に迎え、初めて征東に参加した。1871年(明治4)廃藩置県で岡山県となる。[柴田 一]
『『新編物語藩史 第9巻』(1976・新人物往来社)』

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