Rakuten infoseek

辞書

尾張藩【おわりはん】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

尾張藩
おわりはん
江戸時代,尾張国 (愛知県) 地方を領有した藩。慶長 12 (1607) 年徳川家康が6歳半の9男義直に尾張国を与えて甲府 (山梨県) から清洲 (愛知県) に移し,次いで同 15年新築の名古屋城に移したのに始る。初め 53万 9500石であったが寛文 11 (71) 年に加増され,61万 9500石となり,明治維新まで 16代続き,廃藩置県にいたった。領地は尾張1国のほか,美濃 (岐阜県) ,木曾 (長野県) そのほかに及んだ。御三家の筆頭で,江戸城大廊下詰。2代光友の代に藩政の確立をみ,とりわけ寛文5 (65) 年の木曾材木事務藩営取込みが注目される。6代宗春は城下町名古屋の発展に画期的役割を果したが,その放漫,華美な施策は,8代将軍吉宗の改革政治と対立し,元文4 (1739) 年幕命により引退した。8代宗睦は,細井平洲を用いて藩政改革を行い,財政を建直した。 14代慶勝は,人材登用を推進し,幕府の寛政改革を目標として藩政の刷新にあたった。安政5 (1858) 年,将軍継嗣問題で大老井伊直弼と対立して謹慎を命じられ,のち許されて第1回長州征伐の征長総督となった。しかし再征には反対し,明治維新後,新政府の議定となる。なお,付家老成瀬氏3万 5000石の居城犬山と,同竹腰氏3万石の居城美濃国安八 (あんぱち) 郡今尾は慶応4 (1868) 年1月別に犬山藩と今尾藩を起し廃藩置県にいたった。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

藩名・旧国名がわかる事典

おわりはん【尾張藩】
江戸時代尾張(おわり)国愛知郡名古屋(現、愛知県名古屋市)に藩庁をおいた親藩(しんぱん)で、水戸藩紀伊藩とともに御三家の一つ。藩校は明倫(めいりん)堂。藩高は1615年(元和(げんな)1)に確定した61万9500石で、領地は尾張一国に加え、木材産地の信濃(しなの)国木曽地方や三河(みかわ)国美濃(みの)国などにもあった。前身は清洲(きよす)藩で、1600年(慶長(けいちょう)5)の関ヶ原の戦い後、戦功で安芸(あき)国広島藩に移った福島正則(まさのり)に代わり、徳川家康(とくがわいえやす)の4男松平忠吉(ただよし)が入った。07年、忠吉が無嗣(むし)で死没、家康の9男義直(よしなお)が入封(にゅうほう)した。義直は幼少で駿府の父のもとにおり、藩政は傳役(もりやく)の平岩親吉(ひらいわちかよし)がとった。10年に名古屋城が築かれて武士も庶民も町ごと名古屋へ移住、清洲藩は廃され、尾張藩が成立した。11年の親吉死後、付家老(つけがろう)の成瀬正成(なるせまさなり)、竹腰正信(たけのこしまさのぶ)を頂点とする統治機構が整備され、家臣団も編成された。大坂の陣従軍のあと、16年(元和(げんな)2)に義直が初入国、以後明治維新まで尾張徳川氏16代が続いた。1871年(明治4)の廃藩置県により、名古屋県を経て翌年愛知県に編入された。◇名古屋藩ともいう。

出典:講談社
(C)Kodansha 2011.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

世界大百科事典 第2版

おわりはん【尾張藩】
尾張国(愛知県)名古屋藩庁を置く親藩大藩徳川三家の一つ。1600年(慶長5)関ヶ原の戦後,清須城主福島正則に代わり,徳川家康の四男松平忠吉が入封したが,07年無嗣断絶。あとへ家康の9子徳川義直が甲斐より移封,翌年将軍秀忠の尾張一国を領知すべき旨の判物を受けた。しかし当時義直は幼少で駿府の父のもとにあり,国政は傅(もり)役の平岩親吉がとった。10年名古屋築城により,清須から士民を移住させた。11年親吉死去を機に,成瀬正成竹腰正信を軸とした統治機構の整備,渡辺守綱・石河光忠ら幕臣の付属など,家臣団の形成が活発化した。

出典:株式会社平凡社
Copyright (c) Heibonsha Limited, Publishers, Tokyo. All rights reserved.

日本大百科全書(ニッポニカ)

尾張藩
おわりはん
尾張国名古屋(名古屋市)に藩庁を置く親藩中の雄藩。名古屋藩ともいう。前身は同国春日井(かすがい)郡清須(きよす)(愛知県西春日井郡清洲町)を本拠とする清須藩。本能寺の変後、織田信雄(のぶかつ)が領有、1590年(天正18)豊臣秀次(とよとみひでつぐ)がこれにかわる。1595年(文禄4)福島正則(まさのり)が入封するが、関ヶ原の戦いの戦功で安芸(あき)に移り、徳川家康の四男松平忠吉(ただよし)と交代。1607年(慶長12)忠吉は無嗣(むし)のまま死没、家康の九男徳川義直(よしなお)が甲斐(かい)から転じた。翌年将軍秀忠(ひでただ)から尾張一国を領知すべき旨の判物を受けた。当時義直は幼少で駿府(すんぷ)(静岡市)の父のもとにおり、国政は傳役(もりやく)の平岩親吉(ひらいわちかよし)が代行した。清須の地は低湿で水利に乏しく、大兵力の駐留にも適しないため、家康は1610年今川氏の旧城地名古屋に義直の居城を築き、藩庁を清須より移転し、清須藩は消えた。
 1611年親吉の死去を機に、付(つけ)家老成瀬正成(なるせまさなり)、竹腰正信(たけのこしまさのぶ)を頂点とする統治機構の整備、渡辺、石河(いしこ)、山村(やまむら)、千村(ちむら)ら幕臣の付属など家臣団の編成が活発化した。大坂の陣ののち、義直が初入国。領内巡視、法令の制定、年寄の創置、家臣への知行(ちぎょう)封与が行われ、藩政は軌道にのった。藩祖義直以後、光友(みつとも)、綱誠(つななり)、吉通(よしみち)、五郎太(ごろうた)、継友(つぐとも)、宗春(むねはる)、宗勝(むねかつ)、宗睦(むねちか)、斉朝(なりとも)、斉温(なりはる)、斉荘(なりたか)、慶蔵(よしつぐ)、慶勝(よしかつ)、茂徳(もちなが)、義宜(よしのり)と続く歴代藩主は「尾張殿」と公称され、徳川三家の一として、大名中最高の格式をもつ。1869年(明治2)6月、義宜は朝廷に版籍奉還、尾張藩は消滅した。
 藩政史上二つの重要な改革がなされた。第一は2代光友の寛文(かんぶん)(1661~73)の改革である。寺社奉行(ぶぎょう)・評定所(ひょうじょうしょ)の新設、名古屋市制の改変、世禄(せいろく)制の撤廃、木曽(きそ)林政の強化、藩札発行を断行した。藩制の完成期と目してよい。第二は9代宗睦の天明(てんめい)・寛政(かんせい)(1781~1801)の改革である。幕府の緊縮方針に抗し景気浮揚策を展開した宗春時代の財政難を克服するため、殖産興業の促進、勝手方用達(ようたし)、新田金(しんでんがね)、綿布役銀(めんぷやくぎん)の創設、藩札の再発行に踏み切ったほか、世禄制の復活、地方(じかた)制度の刷新、刑法改正も行った。儒者細井平洲(ほそいへいしゅう)を総裁に藩校明倫堂(めいりんどう)が開かれたのもこの時期である。藩政末期は藩主擁立や勤王・佐幕をめぐる家中の抗争、藩札の整理、長州出兵などが相次ぎ、複雑な様相を呈した。藩高は1619年(元和5)に確定した61万9500石で、尾張全域と、美濃(みの)、三河、近江(おうみ)、摂津、信濃(しなの)の各一部を所領とした。藩士は1854年(安政1)現在、知行(ちぎょう)給与1311人、現米支給4677人。要職に付家老成瀬・竹腰両家年寄や年寄、城代、用人、目付、三奉行がある。藩法として幕府法系の「盗賊御仕置御定(とうぞくおしおきおさだめ)」などが知られる。支藩に、光友の子松平義行(よしゆき)の子孫である美濃高須(たかす)藩がある。尾張の陶磁器、木綿、美濃の紙、柿、信濃の檜(ひのき)材、駒(こま)をはじめ、領内は産物に富む。[林 董一]
『『新編物語藩史 第5巻』(1975・新人物往来社) ▽林董一著『尾張藩公法史の研究』(1962・日本学術振興会) ▽林董一編『尾張藩家臣団の研究』(1975・名著出版) ▽『名古屋市史 政治編・学芸編・産業編』(1915~34・名古屋市)』

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

尾張藩」の用語解説はコトバンクが提供しています。

尾張藩の関連情報

関連キーワード

ベンティボリオジェームズタウン竜造寺政家駿府城ヘームスケルク犬山藩ジャコビアン様式天海総合年表(アメリカ)堀尾吉晴(1543~1611)

他サービスで検索

「尾張藩」のスポンサー検索

(C)The Asahi Shimbun Company /VOYAGE GROUP, Inc. All rights reserved.
No reproduction or republication without written permission.