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宗氏【そううじ】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

宗氏
そううじ
鎌倉時代~明治の対馬支配者。江戸時代,対馬 10万石の大名鎌倉時代初期,在庁官人阿比留氏を討つため,重尚が少弐氏の命を受けて対馬に上陸したのが,宗氏の対馬支配の機縁となった。その後資国が蒙古襲来の際戦死し,当時守護代の地位にあったが,室町時代以後は事実上の対馬守護として君臨した。対朝鮮貿易においては,種々の特権を朝鮮側から与えられ,日鮮貿易の仲介者の役割を果した。応永年間 (1394~1428) 一時佐賀に根拠地を移したが,文明 18 (1486) 年貞国が厳原 (いづはら) に館を造り,以後この地に居住して金石城,棧原 (さじきばる) 城を築いた。文禄・慶長の役では小西行長に従って戦功があったが,関ヶ原の戦いでは豊臣方に加担したため所領の一部を没収された。しかし,江戸時代にも対朝鮮交渉では重要な役割を果し,対馬以外にも肥前国浜崎,田代に飛び地を保有した。明治にいたり伯爵を与えられた。

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世界大百科事典 第2版

そううじ【宗氏】
鎌倉時代から明治維新まで対馬などを支配した北九州の豪族,大名。出自については平知盛後胤説,対馬との関係では1245年(寛元3)宗重尚の阿比留(あびる)氏討伐説が流布していたが,現在は両説とも後世捏造(ねつぞう)で,出自は大宰府府官惟宗(これむね)氏の武士化したものとされる。対馬との関係で確実・最古の人物は,1274年(文永11)のモンゴル襲来時に対馬で戦死した対馬国地頭代の宗資国である。鎌倉時代は大宰少弐氏が対馬国守護・地頭を兼ね,宗氏は地頭代として支配に関係し,南北朝期に実質的な支配者となり,同末期に守護に昇格した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)

宗氏
そううじ
鎌倉時代から明治維新期まで対馬(つしま)島を支配した北九州の豪族、大名。出自については平知盛(たいらのとももり)後胤(こういん)説、対馬との関係については宗重尚(しげひさ)の阿比留(あびる)氏討伐説が流布していたが、現在は、出自は大宰府官人(だざいふのかんにん)惟宗(これむね)氏、対馬との関係では1274年(文永11)の元寇(げんこう)で戦死した資国(すけくに)(助国とも)が最古、確実とされている。資国は対馬国地頭代(じとうだい)。鎌倉末から南北朝にかけては守護大宰少弐(だざいのしょうに)氏のもとで対馬の支配にあたり、その後守護となる。15世紀初頭に北九州から対馬に本拠を移し、ほどなく島内支配と朝鮮関係の掌握を確実なものとした。16世紀の後半には朝鮮貿易をほぼ独占。1587年(天正15)豊臣秀吉(とよとみひでよし)の九州平定に応じて服属。1591年朝鮮通信使の来日実現の功により、従四位下(じゅしいげ)侍従(じじゅう)、対馬守(つしまのかみ)に補任(ぶにん)。この官位は近世の例となった。近世では対馬藩主として義智(よしとし)から義達(よしあきら)(重正)まで16代続いた。1869年(明治2)版籍奉還後、厳原(いづはら)藩(対馬藩)知事、1871年廃藩置県により解任。のち伯爵。[荒野泰典]

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