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【そう】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典


そう
Song; Sung
中国,唐末,五代に続く統一王朝 (960~1279) 。開封を都とする北宋期 (960~1126) と,靖康の変 (27) で渡して臨安を都とする南宋期 (27~1279) に大別される。宋の太祖趙匡胤は五代後周の武将から天子となり,軍閥国家の弊害をみて文治主義の方針をとり,巧妙な手段で武人支配を文官優位の官僚機構に組替え,君主独裁制の基礎を確立した。また国家財政の充実のために,これまでの土地税収入に頼るだけでなく,商業課税や専売収益の比重を増大する政策をとった。しかし対外的には,契丹西夏侵入を受けて歳幣 (外国に対する毎年の贈与) と軍費の捻出に苦しんだ。王安石の新法は,この難局打開のための富国強兵策であったが,新法の実施は大地主,豪商,官僚などの階級の利益を侵害するところが多く,彼らの激しい攻撃を受けた。こうして新旧両法党の対立が激化し,政治的混迷が続いている際,満州に起った女真族のの侵入を招き,華の地を占領されてしまった。南宋期には,金に対する主戦論が強く盛上がったが,宰相秦檜が政局を握ると金との間に和議が成立した。しかし両国の和平はしばしば破れ,臨戦体制の状況下に国家財政は窮迫し,過酷な徭役と重税に加えて紙幣が乱発され物価が高騰し,人民の生活は苦しく,失業者の増大で反乱も頻発した。このような政治,社会の混乱期にあって,さらに強大なモンゴルの侵入にあい,南宋はこれに滅ぼされた。

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デジタル大辞泉

そう【宋】
中国の国名
春秋時代の列国の一。周公旦が、殷(いん)紂王(ちゅうおう)の異母兄、微子啓を封じた国。都は商丘(河南省)。前286年に魏(ぎ)の三国に滅ぼされた。
南北朝時代南朝最初の王朝。420年、東晋の武将劉裕建国。都は建康南京)。479年、8世の順帝が武将蕭道成(しょうどうせい)(斉の高帝)に帝位を譲って滅びた。劉宋。
後周の節度使、趙匡胤(ちょうきょういん)が後周のあとを承けて、960年に建国。汴京(べんけい)を都とし、文治主義による君主独裁制を樹立。1127年、の侵入により江南に移り、都を臨安(杭州)に置いた。それ以前を北宋といい、1279年に9代で軍に滅ぼされるまでを南宋という。→靖康(せいこう)の変

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そう【宋】[漢字項目]
人名用漢字] [音]ソウ(漢)
中国の国名、また、王朝名。「宋音宋学宋朝体南宋入宋(にっそう)北宋
[名のり]おき・くに

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防府市歴史用語集

 960年から1279年までの間の中国の王朝です。首都が北と南に2つありました。北の首都は1127年にほろぼされますが、南は引き続き存続します。日本とは正式な国交はありませんでしたが、貿易は盛んでした。

出典:ほうふWeb歴史館
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世界大百科事典 第2版

そう【宋 Sòng】
中国に960年から1279年まで存在した王朝。1127年(靖康2)の靖康の変によっていったん滅亡したので,それ以前を北宋,以後の南遷して杭州に都した時期を南宋という。
【政治過程】
 後周世宗の武将であった趙匡胤(ちようきよういん)は,世宗の没後,部下の将兵に擁立されて皇帝となり,宋朝を開いた(960)。宋の太祖である。彼は世宗が始めた天下統一の事業を受け継いで,在位17年間に,南方に割拠していた荆南,楚,南漢後蜀南唐を相ついで征服した。

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そう【宋 Sòng】
中国,春秋時代の侯国。?‐前286年。殷の滅亡後,殷王帝辛(紂王)の兄微子啓が,殷の故都商邱(河南商邱県南)に封ぜられた国。春秋時代には河南東部を中心として勢力をもち,第19代襄公は桓公死後の斉の内乱を治め,覇者を志したが,楚に敗れ死亡。以後晋・楚の間にあり,両国の圧迫に苦しんだ。その間前588年,前546年の2回,宋が中心となって晋・楚の和平を実現させた。戦国時代には小国に転落,前286年斉,魏,楚に三分され滅んだ。

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そう【宋 Sòng】
中国,南朝四王朝の一つ。420‐479年。創業者は劉裕(武帝)。曾祖父の代に彭城(江蘇省銅山県)から京口(江蘇省鎮江)に移住。京口に置かれた北府軍団の一部将から身をおこした劉裕は,やがてその軍団長として孫恩・盧循の乱を鎮圧,410年(義熙6)には南燕,417年には後秦を征服,このような武功によって東から王朝を譲られた。第3代文帝治世下の天子と貴族たちとの合議政治の体制は〈元嘉の治〉とたたえられたが,主要な軍鎮の長官には宗室諸王が配せられ,また中央集権を志向した孝武帝以後,手足となって働く実務官僚を寒門や寒人にもとめたため,貴族たちはしだいに棚上げされはじめた。

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大辞林 第三版

そう【宋】
中国の国名。
周代の諸侯国の一(?~前286)。殷いんの宗族微子啓が封ぜられ、商邱しようきゆうに都し殷の遺民を統治したという。斉・魏・楚の三国に滅ぼされた。
南北朝時代、南朝最初の王朝。東晋の武将劉裕が恭帝の禅譲を受けて建国(420~479)。都は建康。八世で武将の蕭道成しようどうせいに帝位を譲った。劉宋。
五代十国を統一した王朝。趙匡胤ちようきよういんが汴京べんけい(開封)に都して建国(960~1279)。遼りよう・西夏の圧迫を受け、1127年金軍の侵入によって江南に移り(靖康の変)、臨安(杭州)に都した。これ以前を北宋、元軍に滅ぼされるまでを南宋という。

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精選版 日本国語大辞典

そう【宋】
中国の国名。
[一] 周代の諸侯国の一つ(?━前二八六)。殷の宗族、紂王の異母兄、微子啓が封ぜられた国。河南省の商邱に都し、殷の遺民を統治したと伝えられる。三二代で斉・魏・楚に滅ぼされた。
[二] 中国、南北朝時代、南朝最初の王朝(四二〇‐四七九)。東晉の部将劉裕(武帝)が建国。建康(南京)に都した。第三代文帝の治世(元嘉の治)が最盛期。八代で斉王の武将蕭道成に帝位を譲り滅んだ。他の宋と区別するために、建国者の姓をとって劉宋と別称。
[三] 中国の統一王朝(九六〇‐一二七九)。趙匡胤(太祖)が五代のあとをうけて建国。汴(べん)(開封)に都して、中央集権を徹底し文治主義の君主独裁制を樹立。対外的には、遼・西夏・金に対して守勢にたち、文運の隆盛、新文化の誕生にもかかわらず、軍事・財政危機に苦しみ、一一二七年金に圧迫され九代で江南に移転。それ以前を北宋、以後臨安(杭州)に都して蒙古に滅ぼされるまでを南宋と称する。趙宋。

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