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安政の大獄【あんせいのたいごく】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

安政の大獄
あんせいのたいごく
戊午の大獄ともいう。安政5 (1858) 年から翌年にかけて,江戸幕府が尊王攘夷派に対して加えた過酷な弾圧。ペリー来航 (1853) 以来,幕府は伝来の鎖国方針を棄てて開国へと政策の大転換をはかったが,独力でこの重大事を乗切る自信がなかったので,アメリカとの和親ならびに通商条約の調印の際,朝廷の許可および諸侯の意見を求めることにより,政策の正当性を獲得しようとした。しかるに朝廷は長く国政を離れて海外事情にうとく,鎖国攘夷の政策を幕府に要求し,前水戸藩主徳川斉昭らもまた同様の政策を主張した。おりから将軍継嗣問題がこれにからみ,幕府内では,徳川斉昭の子で英明な一橋慶喜 (→徳川慶喜 ) を推す派と,彦根藩主井伊直弼を中心とする,血統論の立場から紀伊の徳川慶福を推す派とに分裂した。井伊は開国論の指導者でもあり,安政5年4月大老に就任すると,朝廷の勅許を待たず日米修好通商条約 (→安政五ヵ国条約 ) に調印し,さらに慶福を将軍継嗣に定めた。朝廷がこの専断措置に憤激し,同年水戸藩に攘夷の密勅を下したことから,井伊の,尊王攘夷派,ひいては一橋派に対する弾圧が開始されるにいたった。それはまず同年9月,京都で梅田雲浜ら志士の逮捕に始り,朝廷内の宮家,公卿の尊王派にも及んだ。諸侯では徳川斉昭,水戸藩主徳川慶篤,一橋慶喜らは蟄居,謹慎などの処分に付され,幕府内では外国奉行岩瀬忠震らが処罰を受けた。特に江戸に護送された志士に対しては,前例のない過酷な刑が井伊の裁決によって下され,鵜飼吉左衛門父子,吉田松陰頼三樹三郎橋本左内ら8人が獄門,打首,切腹に処された。この大弾圧はのちの桜田門外の変を誘発し,井伊は水戸浪士らの手で殺される。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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デジタル大辞泉

あんせい‐の‐たいごく【安政の大獄】
安政5~6年(1858~1859)に、大老井伊直弼が行った尊攘(そんじょう)派への弾圧。安政の仮条約や、家茂(いえもち)を14代将軍に定めたことに反対する一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)擁立派の公卿・大名・志士ら百余名を処罰し、吉田松陰橋本左内ら8名を死刑とした。→桜田門外の変

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防府市歴史用語集

安政の大獄
1858年(安政5年)から翌年にかけて大老の井伊直弼[いいなおすけ]が、反対派の公家や大名、志士たちを大量に処罰した事件です。井伊が江戸城外で暗殺された桜田門外の変[さくらだもんがいのへん]のきっかけとなりました。

出典:ほうふWeb歴史館
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世界大百科事典 第2版

あんせいのたいごく【安政の大獄】
1858年(安政5)から翌59年にかけて,大老井伊直弼(なおすけ)が井伊の政治に批判的であった公卿,大名,幕臣,志士などに対しておこなった弾圧。多数の逮捕者と処刑者が出た。
[原因]
 大獄の原因となったのは,将軍継嗣問題条約勅許問題とをめぐる領主階級内部の政争である。1853年(嘉永6)に13代将軍となった徳川家定は,このときすでに30歳であったが1人の子女もなく,また政務をとる能力に欠けていた。57年,諸外国との通商開始が避けられないことが明らかとなり,外交折衝についての幕府の指揮や責任が,ますます重要視されはじめると,家定の後見として政務をとりうる将軍継嗣を,速やかに定めるべきであるとの声が高まった。

出典:株式会社平凡社
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大辞林 第三版

あんせいのたいごく【安政の大獄】
1858年(安政5)から翌年にかけ、安政の五か国条約の調印および将軍継嗣問題に対して激化した尊王攘夷そんのうじようい運動派に対し、大老井伊直弼が行なった弾圧。連座者は公卿・志士百余名。吉田松陰・橋本左内ら八名が処刑された。

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日本大百科全書(ニッポニカ)

安政の大獄
あんせいのたいごく
1858年(安政5)江戸幕府の大老井伊直弼(いいなおすけ)による尊攘運動(そんじょううんどう)への弾圧事件。幕末の尊攘運動に一時期を画した政治的事件である。1857年6月の老中阿部正弘(あべまさひろ)の死去のあと、幕閣の実権は老中堀田正睦(ほったまさよし)(佐倉藩主)に移り、彼は開国政策を支持した。その背後には溜間詰(たまりのまづめ)の譜代大名(ふだいだいみょう)がおり、その指導権は彦根藩主井伊直弼が握っていた。ここにペリー来航以来攘夷主義を主張していた徳川斉昭(とくがわなりあき)以下、松平慶永(まつだいらよしなが)(松平春嶽(しゅんがく))、島津斉彬(しまづなりあきら)らに代表される大廊下詰(おおろうかづめ)家門大名、大広間詰外様大名(とざまだいみょう)の一派と溜間詰譜代大名との対立がクローズアップされた。ところが、病弱であった第13代将軍徳川家定(いえさだ)の継嗣(けいし)問題を契機にこの2派の対立は一段と激化し、政争の焦点はしだいに対外問題へと移った。つまり、幕閣の独裁を抑え、雄藩合議制を主張する家門・外様大名の一派は一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)(斉昭の第7子。のちに徳川慶喜)を将軍継嗣にしようとし(一橋派)、他方、幕閣独裁をとろうとした譜代大名の派は紀州藩主徳川慶福(よしとみ)(のち家茂(いえもち))を擁立した(南紀派)。両派とも朝廷工作を進め、その暗闘のなかで南紀派の策謀が功を奏し、井伊が大老に就任し、彼は独断専行、南紀派の推す慶福を将軍継嗣に決定するとともに、威嚇と督促を重ねるハリスに対しては、勅許を得られないまま日米修好通商条約に調印した(1858年6月)。継嗣問題に敗れた一橋派は、この違勅調印を理由に一斉に井伊攻撃に立ち上がった。儒教的名分としての「尊王」と「攘夷」は、ここに「尊攘」論として結合し、反幕スローガンとなったのである。徳川斉昭・慶喜父子、徳川慶恕(よしくみ)(尾張(おわり))、松平慶永らが不時登城して井伊を詰問すれば、梁川星巌(やながわせいがん)、梅田雲浜(うめだうんぴん)、頼三樹三郎(らいみきさぶろう)、池内大学(いけうちだいがく)らの志士は京都に参集して反幕的機運を盛り上げた。孝明天皇(こうめいてんのう)も激怒して、譲位の意向を示し、1858年8月には、条約調印に不満を示す勅諚(ちょくじょう)、いわゆる「戊午(ぼご)の密勅」を水戸藩に下した。朝廷内部にも上級佐幕派公卿(くぎょう)と下級尊攘派公卿とが対立し、後者は「列参」=集団行動をとった。
 こうした事態に幕府の危機をみてとった井伊は、徹底的な弾圧政策をとり、反対派の公卿、大名を隠退させ、幕吏を罷免し、志士を検挙処断した。公家(くげ)では、右大臣鷹司輔煕(たかつかさすけひろ)、左大臣近衛忠煕(このえただひろ)を辞官落飾(らくしょく)、前関白鷹司政通(まさみち)、前内大臣三条実万(さねつむ)を落飾させ、青蓮院宮(しょうれんいんのみや)(朝彦親王(あさひこしんのう))、内大臣一条忠香(いちじょうただか)、二条斉敬(にじょうなりゆき)、近衛忠房、久我建通(こがたけみち)、中山忠能(なかやまただやす)、正親町三条実愛(おおぎまちさんじょうさねなる)らを慎(つつしみ)に処し、大名では、斉昭を急度慎(きっとつつしみ)、慶恕、慶永に隠居、急度慎を命じ、幕吏中の俊秀大目付土岐頼旨(ときよりむね)、勘定奉行(かんじょうぶぎょう)川路聖謨(かわじとしあきら)、目付鵜殿長鋭(うどのながとし)、京都町奉行浅野長祚(あさのながよし)らを一橋派として左遷し、さらに作事奉行岩瀬忠震(いわせただなり)、軍艦奉行永井尚志(ながいなおゆき)(「なおむね」とも読む)および川路には隠居・慎を命じ、その他処罰された者は十数名に及んだ。志士以下の処罰者は75名に達したが、そのなかには水戸藩家老安島帯刀(あじまたてわき)(切腹)、同右筆頭取(ゆうひつとうどり)茅根伊予之介(ちのねいよのすけ)、同京都留守居鵜飼吉左衛門(うかいきちざえもん)、越前(えちぜん)藩士橋本左内(はしもとさない)、儒者頼三樹三郎、長州藩士吉田松陰(よしだしょういん)(以上死罪)、水戸藩士鵜飼幸吉(こうきち)(獄門)、鷹司家諸大夫小林良典(こばやしよしすけ)(遠島)、儒者池内大学、鷹司家家来三国大学(みくにだいがく)、青蓮院宮家来伊丹蔵人(いたみくろうど)(以上中追放)らがいる。
 この安政の大獄を断行した井伊は、政治は朝廷から幕府が委任されているのだから、外圧の危機に際して「臨機の権道」をとるのは当然であり、勅許を待たない重罪は甘んじて自分一人が負うという論理のうえにたっていた。大老の職に自らの政治生命を賭(か)けたのである。それだけにその政治行動は迅速果敢、強烈な政治意志の発現として断行された。しかし、その政治意志が幕藩体制の保守的伝統的維持に根ざしている以上、客観的にはそれはかえって矛盾の深化、拡大をもたらすものであった。そして、井伊は安政の大獄の返り血を浴びる形で、1860年(万延1)3月、桜田門外に暗殺された。[田中 彰]
『吉田常吉著『井伊直弼』(1985・吉川弘文館) ▽吉田常吉著『安政の大獄』(1996・吉川弘文館) ▽松岡英夫著『安政の大獄――井伊直弼と長野主膳』(中公新書)』

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