Rakuten infoseek

辞書

学制【がくせい】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

学制
がくせい
日本最初の近代学校制度に関する基本法令明治5 (1872) 年発布,その後条文の改正追加が行われ,日本における近代学校の成立発展の基礎となった。同4年に設置された文部省は全国に実施する学校制度を確立するため,学制起草委員を任命して学制を立案制定した。その際国内の事情をも調査したが,委員の多くは当時の洋学者であり,学制は主として欧米の学校制度を模範として定められた。政府は同5年8月2日に学制の趣旨を声明した太政官布告とともに学制を発布し,文部省は翌3日 (太陽暦9月5日) に全国に学制を公布した。学制は全国を大学区,中学区,小学区に区分し,学区制によって小学校,中学校,大学校を設置することとしている。学制の実施により,全国にまず小学校が設けられ,その後中学校その他の学校も設立されたが,学制は規定どおりには実施されなかった。学制の構想はきわめて雄大であったが,当時の現実の社会に適合せず,学制に対する批判も高まり,また西南の役後の政治的,経済的情勢の変化などにより,1879年9月,教育令の公布とともに廃止された。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル大辞泉

がく‐せい【学制】
学校教育に関する制度。
明治5年(1872)に制定された日本最初の近代学校教育制度に関する基本法令。同12年教育令制定により廃止。

出典:小学館
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:田中牧郎、曽根脩
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

防府市歴史用語集

学制
 1871年(明治4年)に文部省[もんぶしょう]から出された法律で、全国を8つの大学区に分け、それぞれに大学1、中学校32、各中学校区に小学校を210つくろうとしたものです。義務教育は8年と定められていました。 しかし、費用は住民の負担にしたため、学制に反対する一揆[いっき]が起こり、1879年(明治12年)に廃止になりました。

出典:ほうふWeb歴史館
Copyright 2002,Hofu Virtual Site Museum,Japan
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

世界大百科事典 第2版

がくせい【学制】
〈学校制度〉の略称として用いられる場合もあるが(学制改革論など),歴史的には,1872年(明治5)から翌73年にかけて数次にわたり文部省布達をもって公布された,日本最初の全国規模での施行をめざした教育制度法令の名称。1871年廃藩置県直後に創設された文部省は,日本の近代化の早急な実現をめざす基本的手段の一つとして,まず全国規模での学校制度の立案を計画し,71年12月箕作麟祥ら洋学者を中心とする12人の〈学制取調掛〉を任命し,翌72年1月には大綱を決め3月下旬案文をととのえて太政官に上申し,6月下旬にその決裁を得て,8月3日文部省布達をもって最初の109章(条)を公布し,以後73年7月までに全213章を公布した。

出典:株式会社平凡社
Copyright (c) Heibonsha Limited, Publishers, Tokyo. All rights reserved.

大辞林 第三版

がくせい【学制】
学校教育に関する制度。普通、1947年(昭和22)発足の現行学制を新制、それ以前を旧制という。
1872年(明治5)に公布された日本の近代学校制度に関する最初の法令。79年教育令公布とともに廃止。

出典:三省堂
(C) Sanseido Co.,Ltd. 編者:松村明 編 発行者:株式会社 三省堂 ※ 書籍版『大辞林第三版』の図表・付録は収録させておりません。 ※ それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

日本大百科全書(ニッポニカ)

学制
がくせい
1872年(明治5)8月3日全国に公布した日本最初の近代的学校制度を定めた法規。71年12月に任命された仏学者箕作麟祥(みつくりりんしょう)ら、主として洋学者よりなる学制取調掛により、欧米の学制を参考に起草され、72年3月太政官(だじょうかん)に上申される。しかし、学制実施経費の問題で公布は遅れた。学制の理念は72年8月2日の太政官布告学制「被仰出書(おおせいだされしょ)」に明らかである。学制は、封建時代の儒教的為政者教育の理念を否定、四民平等の原則にたち「邑(むら)に不学の戸なく家に不学の人なからしめんことを期す」という抱負をもって、個人主義、実学主義を教育の原理とし、「人々自ら其(その)身を立て其産を治め其業を昌(さかん)にして以(もっ)て其生を遂(とぐ)る」こと、いいかえれば、全国民に自立自営の能力を養う実学教育を学校教育の目的だとする。しかし、教科の内容は欧米の翻訳が多かった。学制の内容は、まず「全国ノ学政ハ之(これ)ヲ文部一省ニ統(す)フ」と教育の国家管理の原則を明確にし、ついで学区、学校、教員、生徒、海外留学生、教育行政など、発布当時109章の規定よりなり、学校経営は授業料と学区住民の負担を原則とするところに、財政の特色があった。
 学区は全国を8大学区、1大学区を32中学区、1中学区を210小学区に区分。全国に8大学、256中学、5万3760小学校の設立が予定されていた。教育行政は一般行政から独立し、大学区に督学局、中学区に学区取締12~13名を置き、各人が数小学区を分担して、就学、学校設立、経費運営の事務にあたる。学区は行政単位でもあった。学校は下等、上等小学校(各4年)、下等、上等中学校(各3年)、大学(年限無規定)。そのほか師範学校、のちに専門学校、外国語学校などが加わる。小学校は正規の学校以外に女児小学、村落小学、貧人小学、小学私塾をその範囲に数え、中学校も正規の中学校以外に工業学校、商業学校、諸民学校(定時制)などを含む。学制の実施は、小学校の普及と就学強制、教員養成の充実を目標に進められ、一定の成果をあげたが、小学校の設立、維持経営費用は当時の民衆の経済能力には負担過重で、かつ町村財政を圧迫したほか、授業内容が欧米模倣の教科書を用いた結果、民衆の生活現実と一致せず、また新教科を教えうる教員も少なく学校教育は著しく形式化して民衆の反感を買った。文部省もこのような教育事情を反省し、実情を調査。その調査に基づき1877年ごろには学制の実施を中止、79年から民衆の生活現実と小学校教育との一致を重視する教育令に切り換えた。[本山幸彦]
『井上久雄著『学制論考』(1963・風間書房) ▽倉沢剛著『学制の研究』(1973・講談社) ▽尾形裕康著『学制実施経緯の研究』(1963・校倉書房)』

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

学制」の用語解説はコトバンクが提供しています。

学制の関連情報

他サービスで検索

「学制」のスポンサー検索

(C)The Asahi Shimbun Company /VOYAGE GROUP, Inc. All rights reserved.
No reproduction or republication without written permission.