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孝明天皇【こうめいてんのう】

美術人名辞典

孝明天皇
第百二十一代天皇。仁孝天皇第四皇子、母は新待賢門院藤原雅子。幼少は煕宮、諱は統仁弘化三年皇位につく。江戸幕府最終期の天皇。終始攘夷を望むが、尊攘派志士らの過激な討幕運動に反対し、妹和宮を将軍家茂に嫁がせるなど公武合体の立場をとった。和歌を能くし、御集に『此花詠集』がある。慶応2年(1866)崩御、36才。

出典:(株)思文閣

デジタル大辞泉

こうめい‐てんのう〔カウメイテンワウ〕【孝明天皇】
[1831~1867]第121代天皇。在位、1846~1867。仁孝天皇の第4皇子。名は統仁(おさひと)。攘夷(じょうい)を主張したが公武合体策をとり、皇妹和宮(かずのみや)の将軍徳川家茂(とくがわいえもち)への降嫁を行い、倒幕派を退けた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

孝明天皇 こうめいてんのう
1831-1867* 江戸時代後期,第121代天皇。在位1846-67*。
天保(てんぽう)2年6月14日生まれ。仁孝天皇の第4皇子。母は藤原雅子(新待賢門院)。父の死により皇位をつぐ。攘夷(じょうい)鎖国をのぞみ,幕府が勅許をまたずアメリカなどと修好通商条約に調印したため,一時譲位を表明。その後公武合体をうけいれ,妹の和宮を将軍徳川家茂(いえもち)に降嫁させた。慶応2年12月25日死去。36歳。墓所は後月輪東山陵(のちのつきのわのひがしのみささぎ)(京都市東山区)。幼称は煕(ひろの)宮。諱(いみな)は統仁(おさひと)。
【格言など】あさゆふに民やすかれと思ふ身のこころにかかる異国のふね(「孝明天皇紀」)

出典:講談社
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世界大百科事典 第2版

こうめいてんのう【孝明天皇】
1831‐66(天保2‐慶応2)
第121代に数えられる天皇。在位1847‐66年。仁孝天皇第4皇子。名は統仁(おさひと)。1846年践祚。条約勅許問題以降,積極的に政治に関与。その政治的立場は,強硬な攘夷主義と公武合体論。58年日米修好通商条約の締結に際して,幕府はその勅許を要請したが,調印に強く反対。幕府が独断で条約に調印するや,それに抗議して譲位の意を示す。ここに朝幕の対立は頂点に達したが,桜田門外の変ののち,幕府が公武一体を方針とし,将来の攘夷の実行を約して,皇妹和宮と将軍徳川家茂との婚姻を要請すると,周囲の反対をおしてこれに同意。

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大辞林 第三版

こうめいてんのう【孝明天皇】
1831~1866) 第一二一代天皇(在位1847~1866)。名は統仁おさひと。仁孝天皇の皇子。激しい攘夷主義者であったが、倒幕運動には反対。妹、和宮の将軍家茂への降嫁に同意した。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

孝明天皇
こうめいてんのう
[生]天保2(1831).6.14. 京都
[没]慶応2(1866).12.25. 京都
第 121代の天皇 (在位 1846~66) 。名は統仁 (おさひと) 。仁孝天皇の第4皇子。生母は正親町実光の娘雅子 (なおこ) ,養母は皇太后藤原祺子 (46) 。弘化3 (46) 年践祚。在位の間は内外きわめて多事多難で,日米和親条約は許したが,通商条約 (→安政五ヵ国条約 ) 勅許の幕府要請を退け,攘夷の決意を表明した。しかし安藤信正らによる皇妹和宮の降嫁に同意して公武合体をはかった (→和宮降嫁問題 ) 。文久2 (62) 年から同3年にかけての尊攘過激派の堂上独占に対しては批判的で,急進過激な国策を戒めたため,三条実美以下がいわゆる七卿の都落ちとなった (→七卿落 ) 。天皇の崩御後,尊攘派の公家が復活し,岩倉具視が入京を許され,尊攘派に属した中山忠能の娘慶子と天皇との間に生れた明治天皇の即位となる。皇后夙子 (あさこ) は英照皇太后と称された。陵墓は京都市東山区今熊野の後月輪東山陵。

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日本大百科全書(ニッポニカ)

孝明天皇
こうめいてんのう
(1831―1866)
江戸末期の天皇(在位1846~66)。仁孝(にんこう)天皇第4皇子。天保(てんぽう)2年6月14日生まれ。名は統仁(おさひと)。1846年(弘化3)2月、16歳で践祚(せんそ)、翌年9月即位式をあげる。46年8月、対外関係が急迫の度を強めたため、幕府に対して海防を厳重にするよう沙汰書(さたしょ)を出した。その後も幕府に外交問題で遺憾(いかん)のないようにとの指示を与え、幕府も朝廷の意向を無視できなくなった。58年(安政5)日米修好通商条約の締結にあたって、幕府が事前の了解を求めた際にこれを拒否、井伊直弼(いいなおすけ)の決断による調印を「専断」と非難した。退位の意向も示したが、攘夷(じょうい)強硬派の公卿(くぎょう)に動かされ、8月水戸藩に幕府改革を求める密勅を発した。60年(万延1)井伊暗殺後、幕府は朝廷との妥協によって実権を回復しようとし、天皇も、攘夷の維持のためには公武の合体による国内一致が急務であると判断、妹和宮(かずのみや)の江戸降嫁(こうか)を認めた。62年(文久2)には、将軍家茂(いえもち)の上洛(じょうらく)を求め、一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)、松平慶永(よしなが)の登用による幕政改革を指示、さらに攘夷の布告発布を迫り、翌63年「攘夷断行」を幕府から上奏させるなど、かねてからの攘夷の立場で幕府を強く指導した。しかし、「文久(ぶんきゅう)三年八月十八日の政変」(1863)にあたっては、攘夷派公卿とたもとを分かち、三条実美(さんじょうさねとみ)ら七卿と長州藩兵を京都から追放した。一橋慶喜、松平慶永、山内容堂(ようどう)ら雄藩藩主を中心とする公武合体を目ざし、岩倉具視(ともみ)ら一部公卿の王政復古倒幕論には批判的であった。66年(慶応2)7月、第二次長州征伐中に将軍家茂が死去すると、天皇は征長の停止を幕府に指示し、幕府の統制力の崩壊は決定的となったが、第15代将軍慶喜の就任直後の12月25日急死した。強硬な尊攘派公卿、とくに岩倉具視らが京都回復をねらい、薩長(さっちょう)による武力倒幕の動きが具体化していたときだけに、陰謀による毒殺との説が有力視された。享年36歳。墓所は京都東山(ひがしやま)泉涌寺(せんにゅうじ)の後月輪(のちのつきのわ)東山陵。[河内八郎]
『宮内省編纂『孝明天皇紀』全5冊・附図(1967~71・吉川弘文館)』

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367日誕生日大事典

孝明天皇 (こうめいてんのう)
生年月日:1831年6月14日
江戸時代末期の第121代の天皇
1867年没

出典:日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」
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精選版 日本国語大辞典

こうめい‐てんのう カウメイテンワウ【孝明天皇】
第一二一代天皇。仁孝天皇の第四皇子。名は統仁(おさひと)。弘化三年(一八四六)践祚(せんそ)。攘夷論を主張して、幕府に海防の強化をうながし、安政五か国条約に反対。公武合体をはかり、皇妹和宮を一四代将軍徳川家茂に降嫁させた。天保二~慶応二年(一八三一‐六六

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