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孔子【こうし】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

孔子
こうし
Kong-zi; Confucius
[生]前551. 曲阜
[没]前479
中国,春秋時代学者思想家儒教。名は丘。字は仲尼(ちゅうじ)。諡(おくりな)は至聖文宣王など。先祖は公族であったが家はきわめて貧しく,に仕え大司寇となったが権力者と衝突し,56歳から十余年間魯を去って諸国を歴遊した。諸侯に道的政治の実行を説いたが用いられず,晩年は魯で弟子の教育と著述専念し,『春秋』やその他儒家の経典を著したと伝えられる。『論語』は孔子とその弟子との言行録である。文王武王周公旦らを尊崇し,古来の思想を大成し,為政者のによって民衆を教化する徳治主義根幹とし,の遺制たる礼楽制度による周への復古を説いた。その教えは,儒教として中国思想の根幹となり,後世に大きな影響を及ぼした。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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朝日新聞掲載「キーワード」

孔子
中国春秋時代の思想家(紀元前551年ごろ〜前479年)。故郷役人となり司法長官まで昇進したが、50代半ばに政争に敗れたとされ、弟子を従えて十数年間諸国を遍歴し、諸侯に徳の道を説いて回った。晩年は故郷で弟子の教育と書物の整理に念した。
 孔子が説いた(人間愛)やなどを重視した考えを体系化したものが儒教。「論語」は孔子の死後にその言行を弟子らがまとめた書物で、「(あやま)ちては(すなわ)ち改むるに憚(はばか)ること勿(なか)れ」「朋(とも)あり、遠方より来(きた)る、また楽しからずや」などの言葉は有名。「温故知新」など論語に由来する四字熟語もあり、日本文化にも影響を与えた。
(2014-10-09 朝日新聞 朝刊 2外報)

出典:朝日新聞掲載「キーワード」

デジタル大辞泉

く‐じ【孔子】
孔子(こうし)。また、孔子の像。
「―など掛け奉りてすることなるべし」〈・一三二〉

出典:小学館
監修:松村明
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こう‐し【孔子】
[前552~前479]中国、春秋時代の学者・思想家。魯(ろ)の陬邑(すうゆう)(山東省曲阜(きょくふ))に生まれる。名は丘(きゅう)。字(あざな)は仲尼(ちゅうじ)。諡(おくりな)は文宣王。早くから才徳をもって知られ、壮年になって魯に仕えたが、のち官を辞して諸国を遍歴し、十数年間諸侯に仁の道を説いて回った。晩年再び魯に帰ってからは弟子の教育に専心。後世、儒教の祖として尊敬され、日本の文化にも古くから大きな影響を与えた。弟子の編纂(へんさん)になる言行録「論語」がある。くじ

出典:小学館
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とっさの日本語便利帳

孔子
己の欲せざるところ、人に施すことなかれ。\『論語』
孔子(前五五一~四七九)のことば。

出典:(株)朝日新聞出版発行「とっさの日本語便利帳」

孔子
富ととは、これ人の欲する所なり。その道を以てせざれば、これを得るとも[お]らざるなり。貧ととは、これ人の悪[にく]む所なり。その道を以てせざれば、これを得るとも去らざるなり。\『論語』
孔子(前五五一~四七九)のことば。「と貴とは誰もが望むところだが、正しい方法でそれを得たのでなければ、そこに安住しない。貧と賤とは誰もが嫌うところだが、悪いことをしないでそうなったのであれば、逃げることなくそのままでいる」。

出典:(株)朝日新聞出版発行「とっさの日本語便利帳」

占い用語集

孔子
紀元前551年~前479年の中国の思想家で、それまでのシャーマン的な様々な知識・伝統を、儒教といわれる一つの道徳・思想にまで大成させた人物。易経の解説にあたる「十翼」をまとめたといわれる。

出典:占い学校 アカデメイア・カレッジ
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デジタル大辞泉プラス

孔子
井上靖による歴史小説。1987年から89年まで、雑誌新潮」に連載されたもの。1989年、単行本刊行、ベストセラーとなる。同年、第42回野間文芸賞受賞。

出典:小学館
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世界大百科事典 第2版

こうし【孔子 Kŏng zǐ】
前551‐前479
中国,春秋時代の思想家。名を丘,字を仲尼といい,の陬(すう)(山東省)の生れ。その73歳の生涯は,周王朝の支配体制がくずれ,諸侯の対立抗争する春秋末の動乱期に過ごされている。当時,魯国でも君主の威権は地に落ち,季孫氏・孟孫氏・叔孫氏という3公族が政治を専断していた。さらに3公族のうちもっとも強力な季孫氏では,家臣の陽虎が権勢ふるい,下剋上の様相さえあった。 幼いとき父に死別した孔子は,貧困と苦難のなかに育った。

出典:株式会社平凡社
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大辞林 第三版

くじ【孔子】
呉音
○孔子こうし
孔子の絵や画像。
[句項目] 孔子の倒れ

出典:三省堂
(C) Sanseido Co.,Ltd. 編者:松村明 編 発行者:株式会社 三省堂 ※ 書籍版『大辞林第三版』の図表・付録は収録させておりません。 ※ それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

こうし【孔子】
前551~前479頃 呉音でくじとも 中国、春秋時代の魯の思想家。儒教の祖。名は丘、字あざなは仲尼ちゆうじ、諡おくりなは文宣王。昌平郷陬邑すうゆう(山東省曲阜きよくふ県)の生まれ。魯に仕えたがいれられず、諸国を遊説したのち、門人の教育に専念。周公旦しゆうこうたんの政治と事績を理想とし、仁と礼とを倫理的行為の根本におき、徳治政治を達成せんとした。その思想は、言行を記録した「論語」にみられる。また、「書経」「詩経」「春秋」などを整理・編纂したといわれる。

出典:三省堂
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日本大百科全書(ニッポニカ)

孔子
こうし
(前552/前551―前479)
中国古代の思想家。儒教の祖。名は丘(きゅう)。字(あざな)は仲尼(ちゅうじ)。孔子の「子」は尊称。魯(ろ)の国(山東省)の人。[本田 濟]

生涯

孔子は、魯の下級武士叔梁(しゅくりょうこつ)と、その内縁の妻徴在(ちょうざい)との間に生まれた。父は大力で斉(せい)との戦闘で武勲をあげている。孔子3歳のとき父が没し、倉庫番や牧場の飼育係をしながら学問に励んだので定まった師匠はない。当時の天下は下剋上(げこくじょう)の風が瀰漫(びまん)していた。諸侯は周(しゅう)の王室の権威をないがしろにし、諸侯の国では家老が主君をしのぐ。魯の国でも家老の三桓(さんかん)(季孫(きそん)、叔孫(しゅくそん)、孟孫(もうそん))が一国の実権を握っていた。魯の君の昭公(在位前541~前510)は、三桓の専横を憤り、武力でこれを討とうとして失敗、斉の国に亡命した。36歳の孔子はこのときなぜか斉に行き、数年間斉にとどまる。43歳、定公(在位前509~前495)が即位すると、孔子は魯に帰る。このころから子路(しろ)(季路)、閔子騫(びんしけん)らの弟子が集まり、孔子の名声が高まる。52歳、中都の宰(さい)(代官)となる。53歳のとき、夾谷(きょうこく)(山東省)で魯と斉との和平会議があった。斉の君は暴力で魯の君を脅迫しようとした。魯君の介添えの孔子は、逆に斉の君を叱咤(しった)し交渉を有利に導いた。54歳、魯の大司寇(だいしこう)(司法大臣)となる。翌年、孔子は三桓の勢力を削減しようと謀るが、露顕して失敗。以後14年間、曹(そう)(山東省)、衛、宋(そう)、鄭(てい)、陳(ちん)、蔡(さい)(以上河南省)、楚(そ)(湖北省)の諸国を流浪。孔子は、自分の理想の政治を実施してくれる君主を探し求めたのだが、どこへ行っても採用されず、ときには人違いで殺されかけたり、飢えたりした。69歳で魯に帰る。以後は政界に望みを絶ち、弟子の教育に専念する。弟子の数3000人。うち「六芸(りくげい)」(礼、楽(がく)、射(しゃ)、御(ぎょ)、書、数)に通じた者72人。孔子によれば、徳行には顔淵(がんえん)(顔回)・閔子騫・冉伯牛(ぜんはくぎゅう)・冉仲弓(ちゅうきゅう)、言語には宰我(さいが)・子貢(しこう)、政事には冉有(ぜんゆう)・季路(きろ)、文学には子游(しゆう)・子夏(しか)が優れる。74歳没。[本田 濟]

著作

孔子は六芸のすべてにかかわったとされる。すなわち『詩経』『書経』を編纂(へんさん)、「礼」「楽」を制定、『易経』を注釈、『春秋』を創作したという。このことは今日では疑われているが、これらの経典が旧中国で権威を有したのは、孔子の手になるという信仰のためである。孔子の死後、その弟子または再伝の弟子が孔子の言行録を編んだ。『論語』20篇(ぺん)がそれで、孔子の思想を知るための唯一の信用すべき資料である。[本田 濟]

思想

孔子は、乱世を治めるためには、周の初めの制度に復帰すべきだと考える。「周は二代(夏(か)・殷(いん))に監(かんが)みて、郁郁乎(いくいくこ)として文なるかな。吾(わ)れは周に従わん」(『論語』八(はちいつ)篇)。しかし、具体的に周初の制度がどのようなものだったのか、孔子はほとんど語ってはいない。孔子は、自分の理想とする統治形態をいにしえに託したらしい。孔子は、為政者は有徳者でなければならず、法律や政令による厳しい規制よりも、道徳や礼儀による教化こそが理想的な支配の方式だと考える。「これを道(みち)びくに政(まつりごと)を以(もっ)てし、これを斉(ととの)うるに刑を以てすれば、民免(まぬか)れて恥なし。これを道びくに徳を以てし、これを斉うるに礼を以てすれば、恥あり且(か)つ格(ただ)し」(為政篇)。
 孔子は最高の道徳を「仁(じん)」とよび、幾人もの弟子にさまざまの説明を与えている。もっとも明瞭(めいりょう)なのは、(はんち)の問いに答えて「人を愛すること」といった定義である(顔淵篇)。キリスト教の博愛、仏教の慈悲に似ているようだが、親兄弟に対する骨肉の愛情――孝悌(こうてい)を中心として、遠心的に他人にまで及ぼすという点で、やや異質である。孔子のいう道徳による政治とは、孝悌による政治といってもよい。ある人に「先生はどうして政界に乗り出さないのか」と問われて、孔子は「親に孝行、兄弟仲良くすること、これも政治だ」と答えた(為政篇)。迂遠(うえん)なようであるが、旧中国の支配形態は、底辺の治安を郷党(きょうとう)の自治にゆだねることで、支配のための労力を節約してきた。家族道徳中心の儒教が、漢から清(しん)までの2000年間、支配のイデオロギーとして用いられた理由はそこにある。
 孔子のころの人々は、呪術(じゅじゅつ)で神意をうかがい、それに従って行動するのが常であった。孔子は「民の義を務め、鬼神(きじん)を敬してこれを遠ざく」(雍也(ようや)篇)という。人間は良心の命令によってのみ行動すべく、神の意志によって行動すべきでない。そのために神々は、これを尊敬しながらも不可知(ふかち)のものとしてそっとしておけ、というのである。ここに思想史上の孔子の画期的な意味がある。[本田 濟]

その後の影響

孔子は自分が聖人だといわれることを強く拒否していた。しかしその死後100年を経た孟子(もうし)などは、明瞭に孔子を聖人とよぶ。漢代、儒教が国教となると(前136)、孔子はいよいよ神秘的予言者扱いされ、前漢末には諡(おくりな)を贈られる(後2)。後漢(ごかん)以後、歴代王朝は、学校や孔子廟(びょう)に孔子とその高弟を祀(まつ)るのが常であった。しかし民国革命(1912)後、呉虞(ごぐ)や魯迅(ろじん)は、孔子を中国の封建的陋習(ろうしゅう)の根源として攻撃した。その論法は人民中国にも受け継がれ、1973年の「批林批孔(ひりんひこう)」運動で頂点に達したが、四人組失脚後は鎮静化している。[本田 濟]
『和辻哲郎著『孔子』(1938・岩波書店/岩波文庫) ▽白川静著『孔子伝』(1972・中央公論社/中公文庫) ▽貝塚茂樹著『孔子』(岩波新書)』

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精選版 日本国語大辞典

く‐じ【孔子】
[1] (「く」は「孔」の呉音) =こうし(孔子)
※今昔(1120頃か)一〇「此の孔丘を世に孔子(くじ)と云ふ」
[2] 〘名〙
① 孔子を写した絵や像。
※枕(10C終)一三二「くじなどかけたてまつりてすることなるべし」
② 孔子のように賢い人。賢人。〔名語記(1275)〕

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こう‐し【孔子】
中国、春秋時代の学者、思想家。名は丘(きゅう)。字(あざな)は仲尼(ちゅうじ)。儒教の開祖。魯の昌平郷陬邑(すうゆう)(=山東省曲阜県)に生まれる。大司寇(だいしこう)として魯に仕えたが、いれられず、辞して祖国を去り、多くの門人を引き連れて、約一四年間、七十余国を歴訪、遊説。聖王の道を総合大成し、仁を理想とする道徳主義を説いて、徳治政治を強調した。晩年、教育と著述に専念し、六経(りくけい)、すなわち易、書、詩、礼、楽、春秋を選択編定したとされる。後世、文宣王と諡(おくりな)され、至聖として孔子廟(文廟ともいう)にまつられ、近代に至るまで非常な尊敬を受けた。呉音で読んで「くじ」ともいう。また、折目正しい態度、堅苦しい人物や物事などのたとえにいう。(前五五一頃‐前四七九

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旺文社世界史事典 三訂版

孔子
こうし
前551〜前479
春秋時代の思想家。儒学の始祖
名は丘 (きゆう) ,字 (あざな) は仲尼 (ちゆうじ) 。魯 (ろ) 国の曲阜に生まれ,魯国に仕えるかたわら,広い学識により信望を集め,多くの門弟を教えた。51歳で魯の国政に参加したが,政争にまき込まれて官を辞した。のち弟子を率いて諸国を遊説し,明君を求めて自の政治理念を生かそうとしたが用いられず,晩年は再び魯に戻って門弟の教育と古典の整理にあたり,魯国の年代記である『春秋』を著して73歳で死んだ。『論語』は彼の言行を弟子たちが記録したもの。孔子の説は周の古制を理想としており,「修身斉家治国平天下」の言葉が示すように,個人の修養に出発して治国の大道に至らんとするものであった。最も重要とされるのが「仁」であって,一人ひとりがその「仁」を実践することで,社会の秩序が保たれる,とした。儒学の祖・聖人として,以後2000年あまり非常に尊敬され,山東省曲阜にある孔子廟をはじめとして,全国各地に廟が建立された。中華民国以後は,文学革命を通じて進歩的文化人層から孔子批判が起こったが,国民政府時代は新生活運動などを通じて孔子崇拝が奨励された。中華人民共和国の建国当時は孔子への評価は一定しなかったが,文化大革命の総括として「批林批孔」が強調され,孔子の反人民的性格と,儒学の反革命的権威主義が指摘されたが,1980年代にはすぐれた教育者であったという再評価も盛んとなった。

出典:旺文社世界史事典 三訂版
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