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始皇帝【しこうてい】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

始皇帝
しこうてい
Shi-huang-di; Shih-huang-ti
[生]前259
[没]始皇帝37(前210).7. 沙丘,平台(河北省平郷県)
中国最初の古代統一帝国秦の創設者。名は政。父荘襄王の死により 13歳で即位。丞相呂不韋の失脚した始皇帝 10 (前 237) 年頃から独裁を始め,王翦 (おうせん) ,蒙武 (もうぶ) らの将軍を派遣し6国を次々に滅ぼし,同 26年天下を統一。法家の李斯らの建策により中央官制の整備,郡県制の実施,度量衡・文字の統一,焚書坑儒による思想統一など大きな成果をあげる一方,匈奴を攻撃して万里の長城を築き,南方に領土を拡大し,秦の名を外国にまで広めた。しかし,阿房宮驪山 (りざん) の始皇帝陵などの大土木事業や外征のため国民に大きな負担を与えた。

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デジタル大辞泉

し‐こうてい〔‐クワウテイ〕【始皇帝】
[前259~前210]中国、の初代皇帝。名は政。前221年、中国を統一して絶対王制を敷いた。郡県制の実施、度量衡貨幣の統一、焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)による思想統一、万里の長城修築阿房宮(あぼうきゅう)陵墓造営など事績が多い。しかし、急激な拡大と強圧政治に対する反動のため、死後数年で帝国は崩壊。始皇。

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防府市歴史用語集

始皇帝
 中国・秦[しん]の初代皇帝です。紀元前221年、それまでばらばらだった中国全土を支配し、始皇帝と名乗るようになりました。自分の墓(始皇帝陵[しこうていりょう])の中に土製の軍隊(兵馬俑[へいばよう])をつくらせたり、万里の長城[ばんりのちょうじょう]を増築したりしたことで知られています。

出典:ほうふWeb歴史館
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世界大百科事典 第2版

しこうてい【始皇帝 Shǐ huáng dì】
前259‐前210
中国,代の王(在位,前247‐前222),中国最初の皇帝(在位,前222‐前210)。姓は(えい),名は政。荘襄王の子。一説では実父は陽翟の大賈である呂不韋とする。荘襄王が人質となってに寄寓していたおりに呂不韋は自分の姫妾を荘襄王に献上したが,彼女はすでに妊娠していたという。政は趙の国都邯鄲に生まれ,荘襄王の死去により13歳で秦王となった。はじめ呂不韋を相国として国事をゆだねたが,即位10年に嫪毒(ろうあい)の事件に連座したためにしりぞけ,ついで法家の李斯を重用した。

出典:株式会社平凡社
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大辞林 第三版

しこうてい【始皇帝】
前259~前210) 中国、秦の第一世皇帝(在位 前221~前210)。第三一代秦王。名は政。紀元前221年戦国の六国を滅ぼし、初めて中国全土を統一、自ら皇帝と称した。郡県制を施行して中央集権化を図り、焚書坑儒ふんしよこうじゆによる思想統制、度量衡・文字・貨幣の統一、万里の長城の増築などを行なった。

出典:三省堂
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日本大百科全書(ニッポニカ)

始皇帝
しこうてい
(前259―前210)
中国、戦国の「七雄(しちゆう)」の一つ、秦(しん)国の王(在位前247~前221)、ついで秦帝国の初代皇帝(前221~前210)。辛亥(しんがい)革命(1911)に至るまで、2000余年も存続した皇帝支配体制の創立者として、歴史的に重要な人物である。名は政(せい)、始皇帝は諡(おくりな)であって、生前の正式な称号は「皇帝」。父の子楚(しそ)(即位して荘襄王(そうじょうおう)。出土史料では荘王)が人質として趙(ちょう)国にいたころ、その国都邯鄲(かんたん)(河北省邯鄲市付近)で生まれた。子楚のパトロン、大商人の呂不韋(りょふい)が始皇帝の実父であると『史記』にはみえる。子楚を継いで13歳で秦王となり、丞相(じょうしょう)となっていた呂不韋が相国(しょうこく)として執政した。秦は、6代前の孝公(在位前362~前338)の時代に、都を咸陽(かんよう)(陝西(せんせい)省咸陽市の東方15キロメートル付近)に置き、法家の商鞅(しょうおう)を採用して、富国強兵に努めていたが、秦王政はこのころの成果を受けて、まず母の太后の愛人、(ろうあい)の反乱を鎮圧し、これを契機として呂不韋を追放し、親政を開始した。ついで法家李斯(りし)(のちに丞相となる)を抜擢(ばってき)して、商鞅が始めた内政改革(変法(へんぽう))をさらに徹底させた。咸陽の北東部の平野に巨大な用水路(鄭国渠(ていこくきょ))をつくり、「四万余頃(けい)」(約1867万アール)の耕地を開き、民政を安定させた。このような開拓事業を基盤として、国家に忠実な無数の兵士を養成し、軍功をあげれば庶民にも爵(しゃく)を与えるという信賞必罰の政策、秦国の伝統的騎馬戦術、巧みな外交政策(遠交近攻)などを展開することにより、韓(かん)、趙(ちょう)、魏(ぎ)、楚(そ)、燕(えん)、斉(せい)の6国をこの順序で滅ぼし、紀元前221年、統一国家を完成し、この新生国家の盟主としてふさわしい「皇帝」の号を創立した。[尾形 勇]

支配構造

秦帝国の支配理念は、国家が民衆のひとりひとりを、あるいは兵士、あるいは人夫として徴用し、また人頭税の形で富を集め取ることにある(個別人身支配)。この理念を実現させるために、それまでの「封建」制(分封制)を廃止し、全国を郡県制(ぐんけんせい)で再編成した。地方の諸都市である県をいくつかまとめたものが郡であり、36(のち48)の各郡と、その下の各県の統治者としては、皇帝の代行者としての官僚を中央から直接派遣した。皇帝の周囲には、丞相(政務)、太尉(たいい)(軍務)、御史大夫(ぎょしたいふ)(監察)を中心とする機動的な中央官制を敷き、また人々の日常生活の隅々まで規制した統一的で膨大な法律を制定し、民間での武器所有を禁じた。また、度量衡規格を一にし、「公平」な租税徴集の体制を整え、行政に便利なように文字を簡略な隷書(れいしょ)体に統一し、また軍隊をただちに送り、政令を全国の隅々まで行き届かせるために、車軌(しゃき)(両輪の間の幅)を一定にし、交通網を整備した。
 首都咸陽には、皇帝の威容を誇示する壮麗な宮殿を建て、その周辺に多くの官庁を置き、皇帝の目が届くように地方の豪族を強制移住させるなどして、首都の姿を整えた。咸陽の南には天体の構造をかたどった阿房宮(あぼうきゅう)をつくり、渭水(いすい)を渡って咸陽宮に連結させるという大規模な造営も開始した。また北方の外民族の侵入に備えて、かの「万里の長城」を築き、「麗山(りざん)山)」と称する自己の寿陵(じゅりょう)(生前につくられる陵)を建設した。これらの事業は、民衆を酷使する結果となり、過酷な法律の適用とともに、秦帝国滅亡の起因となった。
 皇帝支配を支えていた思想は法家のそれであり、儒家思想は「封建」の復古を願うものとして弾圧され、その系統の書物は焼かれ(焚書(ふんしょ))、儒家たちのうち460余人が、咸陽で生き埋めにされた(坑儒(こうじゅ))。このことが始皇帝の悪行の第一に数えられるようになったのは、漢代以降、儒家思想が復活してからである。
 始皇帝はまた、威光を全国に示すために、5回にわたる巡幸を行い、その行路は、南は会稽山(かいけいざん)(浙江(せっこう)省紹興(しょうこう)市南東)から揚子江(ようすこう)流域の洞庭(どうてい)湖(湖南省)付近にまで及んでいる。しかしこの第5次の巡幸の帰路、前210年7月、沙丘(河北省平郷県近く)で病没してしまい、自分の意志とは違って、公子の一人の胡亥(こがい)(二世皇帝、在位前210~前207)が即位し、この代で秦帝国は崩壊した。[尾形 勇]

始皇帝の遺跡

近年の盛大な考古学的調査発掘によって、始皇帝に関する多彩な史料や遺跡、遺構が出現した。まず新しい調査によって、始皇帝陵は二重の城壁を巡らした大規模な陵園であったことがわかり、墳丘の西側から出土した珍しい銅製の車馬、東側1.5キロメートルの地点で発見された数千体の兵士や軍馬の陶俑(とうよう)など、始皇帝の権力を彷彿(ほうふつ)させる文物が姿を現している。のちに項羽(こうう)によって焼き払われた咸陽宮の調査も進んでおり、第3号宮殿遺跡からは、秦代のものとしては初めての壁画が発見された。また湖北省雲夢(うんぼう)県の秦代の墓からは、戦国末から始皇帝の時期までの、秦の法律文書を中心とする多数の竹簡(ちくかん)史料が出土し、貴重な第一次史料となっている。[尾形 勇]
『栗原朋信著『秦漢史の研究』(1960・吉川弘文館) ▽西嶋定生著『中国の歴史 2 秦漢帝国』(1974・講談社)』

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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精選版 日本国語大辞典

し‐こうてい ‥クヮウテイ【始皇帝】
[1] 中国、秦の皇帝(在位前二四七‐前二一〇)。荘襄王の子。姓は嬴(えい)。名は政。韓・趙・魏・楚・燕・斉の六国を滅ぼし天下を統合し始皇帝と自称。郡県制による中央集権の政治をとり、焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)による思想統制や、車両の幅、度量衡、貨幣の統一、文字の簡略化、万里長城の増築、阿房宮など荘厳な宮殿の築造などを行ない、また一方で全国に遊んで自賛の刻石を建て、不老長寿の薬を求めたりしたが、性急苛酷な専制政治のため、その死後数年で秦が滅びる原因を作ることとなった。(前二五九‐前二一〇
[2] 〘名〙 ((一)が松の下で雨を避け、その松に大夫の位を授けた故事から) 「松」をしゃれていった語。
※雑俳・柳多留拾遺(1801)巻一四下「きの字やの台にはびこる始皇帝」

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