Rakuten infoseek

辞書

天海【てんかい】

美術人名辞典

天海
江戸前期の天台宗陸奥生。幼名は蘆名兵太郎、号は南光坊・智楽院、謚号は慈眼大師。11才で薙髪受戒し、14才から諸国を遍歴し、比叡山三井寺興福寺等で修行する。一時甲斐国武田氏の寓客となった。慶長年間には徳川家康に招かれ駿府で天台を説き帰依を受ける。寛永元年徳川秀忠の命により江戸上野に東叡山寛永寺開創、三代将軍家光まで幕府の信頼を受けた。寛永20年(1643)寂、108才。

出典:(株)思文閣

デジタル大辞泉

てんかい【天海】
[1536~1643]江戸初期の天台宗の僧。会津の人。号、南光坊。勅諡(ちょくし)号、慈眼大師徳川家康に重んじられ、政務にも参加。家康の死後東照大権現贈号日光山改葬輪王寺中興。江戸上野に東叡山寛永寺創建木活字版大蔵経刊行天海版とよばれる。

出典:小学館
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:田中牧郎、曽根脩
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル版 日本人名大辞典+Plus

天海 てんかい
1536-1643 戦国-江戸時代前期の僧。
天文(てんぶん)5年1月1日生まれ。比叡(ひえい)山でまなんで同山復興につくし,天台宗中興の祖とされる。徳川家康,秀忠,家光の幕政に参画。武蔵(むさし)川越(埼玉県)喜多院,日光輪王寺を再興。寛永2年寛永寺をひらく。日本初の版本による大蔵経を計画,死後刊行された。寛永20年10月2日死去。108歳。陸奥(むつ)会津(あいづ)(福島県)出身。号は南光坊。諡号(しごう)は慈眼(じげん)大師。法名は別に随風。
【格言など】天下を治めるには性急さを避け,愛情をもって人にのぞまれよ(「甲子夜話」)

出典:講談社
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

デジタル大辞泉プラス

天海(てんかい)
鹿児島県、株式会社天海のが製造する黒糖焼酎

出典:小学館
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

世界大百科事典 第2版

てんかい【天海】
1536‐1643(天文5‐寛永20)
戦国期~江戸初期の天台宗の僧。会津(福島県)の人。通称南光坊天海。江戸幕府創始期に以心崇伝と並んで,幕府の宗教行政の中心人物であった。徳川家康・秀忠・家光の3人の将軍につかえ,とくに家康の懐刀といわれた。11歳で出家し,はじめ随風と称した。14歳で比叡山に登り,その後三井寺,さらに南都の諸寺を遊学。1571年(元亀2)延暦寺織田信長の焼打ちにあうと,山門の衆徒をひきつれ,甲斐の武田信玄のもとに身を寄せた。

出典:株式会社平凡社
Copyright (c) Heibonsha Limited, Publishers, Tokyo. All rights reserved.

大辞林 第三版

てんかい【天海】
1536~1643 江戸初期の天台宗の僧。号は南光坊。諡号しごうは慈眼大師。会津の人。比叡山・興福寺などで諸宗について学び、川越の喜多院などに住した。徳川家康の帰依をうけて政治にも参与し、日光山を授けられた。家康死後、家康を久能山から日光山に東照大権現として改葬。また、江戸上野に寛永寺を創建。天海版と呼ばれる「大蔵経」の版行を発願、その死後に完成。

出典:三省堂
(C) Sanseido Co.,Ltd. 編者:松村明 編 発行者:株式会社 三省堂 ※ 書籍版『大辞林第三版』の図表・付録は収録させておりません。 ※ それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

天海
てんかい
[生]天文5(1536).会津
[没]寛永20(1643)
江戸時代前期の天台宗の僧。諡号は慈眼 (じげん) 大師。 11歳のとき出家し,比叡山の実全について天台学を,園城寺の尊実には倶舎論を,南都では法相・三論を,大寧禅徳からは禅学をそれぞれ学んだ。のちに川越の喜多院に住んだ。徳川家康の信任厚く,比叡山の南光坊の主となったが,再び喜多院住職となった。慶長 14 (1609) 年比叡山法華大会の修法に際しては選ばれて探題となった。後陽成上皇から僧正を賜わった。元和1 (15) 年の正親町上皇の御忌には導師となり大僧正に任じられた。寛永1 (24) 年に上野の寛永寺の開基となる。秀忠,家光の政治顧問格であった。 11年を費やし本活字によって『一切経』を開版し,天海版と称されている。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

日本大百科全書(ニッポニカ)

天海
てんかい
(1536―1643)
江戸前期の天台宗の僧。慈眼(じげん)大師と号する。陸奥(むつ)国(福島県)会津高田(会津美里(あいづみさと)町)に生まれる。姓は蘆名(あしな)氏。生年には各説があるが、辻善之助(つじぜんのすけ)は『日本仏教史』で、日光東照宮薬師堂法華(ほっけ)万部供養の記録(『孝亮宿禰日次記』)の、1632年(寛永9)97歳説をよりどころとしており、1536年(天文5)説が有力。天海は会津高田稲荷堂(いなりどう)別当(べっとう)の舜海(しゅんかい)に師事し、のち関東から比叡山(ひえいざん)へ遊学して天台宗の教義を修めた。のち故郷の稲荷堂別当となり、1577年(天正5)上野(こうずけ)国(群馬県)世良田(せらだ)長楽寺において春豪(しゅんごう)から天台密教葉上(ようじょう)流を受け、1582年武蔵(むさし)(埼玉県)川越(かわごえ)喜多院(きたいん)に入寺。1604年(慶長9)下野(しもつけ)国(栃木県)宗光寺に移る。1607年比叡山東塔南光坊住持となり、天台密教法曼(ほうまん)流を伝え、宮中講師、広学竪義探題(りゅうぎたんだい)などを歴任。1612年ごろ徳川家康(とくがわいえやす)と交わりをもち、駿府(すんぷ)(静岡市)に随従して、論議・法要などを営んだ。大坂夏の陣で勝った家康に天台の法門を伝え、山王一実神道(さんのういちじつしんとう)を伝え、それによって家康没後、東照大権現(だいごんげん)の神号を呈し、日光山に奉安したといわれる。2代将軍徳川秀忠(ひでただ)を庇護(ひご)し、1622年(元和8)江戸府内上野の地を寄せられ、ここに寛永寺を創した。3代家光(いえみつ)もまた天海に帰依(きえ)したという。天海は弟子公海(1607―1695)と天海版一切経(いっさいきょう)を開板したり、兵火で散逸していた天台宗の典籍を収集整理し天海蔵を組織した。そのほか、もっぱら徳川家のために講経祈祷(きとう)を重ね、また、黒衣宰相と称せられるような政務への影響力もあった。寛永(かんえい)20年10月2日寂。108歳であった。[木内曉央]

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

367日誕生日大事典

天海 (てんかい)
生年月日:1536年1月1日
安土桃山時代;江戸時代前期の天台宗の僧
1643年

出典:日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」
(C) Nichigai Associates, Inc., All rights reserved.
それぞれの項目は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

精選版 日本国語大辞典

てんかい【天海】
安土桃山~江戸初期の天台宗の僧。徳川三代の政治顧問。号は南光坊。勅諡は慈眼大師。会津の人。諸宗の学問を修め、川越の喜多院に住したが、徳川家康の帰依を受けて政務に携わり、のち比叡山の南光坊に移って宮中にも法を説いた。慶長一八年(一六一三)日光山を与えられ、家康没後その遺骸をここに改葬し、輪王寺を中興した。寛永二年(一六二五)、上野の東叡山寛永寺を開き、同一四年木活字の「大蔵経(天海版)」を刊行した。天文五頃~寛永二〇年(一五三六頃‐一六四三

出典:精選版 日本国語大辞典
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

天海」の用語解説はコトバンクが提供しています。

天海の関連情報

他サービスで検索

(C)The Asahi Shimbun Company /VOYAGE MARKETING, Inc. All rights reserved.
No reproduction or republication without written permission.