Rakuten infoseek

辞書

大隈重信【おおくま しげのぶ】

美術人名辞典

大隈重信
政治家。佐賀県生。初名は八太郎。立憲改進党を創立し、総理となり自由民権運動一翼を担った。伊藤内閣松方内閣の外相となった後、板垣退助と共に憲政党を結成し、最初政党内閣組織する。早稲田大学創立者。早稲田大総長。大正11年(1922)歿、84才。

出典:(株)思文閣

デジタル大辞泉

おおくま‐しげのぶ〔おほくま‐〕【大隈重信】
[1838~1922]政治家。佐賀の生まれ。明治14年(1881)の政変で下野し、翌年立憲改進党を組織。伊藤黒田内閣の外相として条約改正にあたったが、爆弾を投げられて片脚を失う。明治31年(1898)最初の政党内閣を組織。大正3年(1914)再び首相となり、第一次大戦への参戦を決定。東京専門学校早稲田大学前身)の創立者。
榛葉英治による評伝副題進取の精神、学の独立」。昭和60年(1985)、上下2巻で刊行

出典:小学館
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:田中牧郎、曽根脩
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル版 日本人名大辞典+Plus

大隈重信 おおくま-しげのぶ
1838-1922 明治-大正時代の政治家。
天保(てんぽう)9年2月16日生まれ。肥前佐賀藩士大隈信保の長男。長崎でフルベッキに英学をまなぶ。維新後,明治政府の徴士参与職,外国官副知事,大蔵卿,参議などを歴任。秩禄処分,地租改正などを推進した。明治十四年の政変で官職を辞し,翌年立憲改進党を結成し,総裁。同年東京専門学校(現早大)を創立。21年第1次伊藤内閣,ついで黒田内閣の外相となり,条約改正にあたるが,反対派の来島恒喜(くるしま-つねき)に爆弾をなげつけられ右足をうしなう。31年板垣退助と憲政党を結成して日本初の政党内閣(隈板(わいはん)内閣)を組織。大正3年第2次内閣を組織して第一次大戦に参戦,4年には対華二十一ヵ条要求を提出した。大正11年1月10日死去。85歳。
【格言など】文明の凶器は利きめあり(爆弾事件のときの言)

出典:講談社
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

とっさの日本語便利帳

大隈重信
過去を忘れよ。\大隈重信
政治家(一八三八~一九二二)。

出典:(株)朝日新聞出版発行「とっさの日本語便利帳」

世界大百科事典 第2版

おおくましげのぶ【大隈重信】
1838‐1922(天保9‐大正11)
明治維新から大正期にかけて,財政・外交にすぐれた手腕を発揮した政治家。佐賀藩の上級士族の家に生まれ,幼少から藩校弘道館で漢学を学び,のち蘭学に移り,ついで長崎に遊学してアメリカ人フルベッキについて英学を学び世界的な視野を開いた。幕末政局で,彼は尊攘派として長州藩の外国船砲撃事件(1863)を支持し,1867年(慶応3)には脱藩上京して徳川慶喜に政権返還を説こうとしたが捕らえられ,王政復古のときも藩主に討幕出陣を勧めたが入れられなかった。

出典:株式会社平凡社
Copyright (c) Heibonsha Limited, Publishers, Tokyo. All rights reserved.

大辞林 第三版

おおくましげのぶ【大隈重信】
1838~1922 政治家。佐賀藩士。幕末、尊攘派として活躍。維新後、財政面で尽力。1888年(明治21)、外相として条約改正にあたる。翌年、玄洋社社員に襲われ、片足を失う。98年、板垣退助とともに憲政党を結成し、最初の政党内閣を組織。1914年(大正3)、再び組閣、第一次大戦への参戦を決定。東京専門学校(現、早稲田大学)の創立者。

出典:三省堂
(C) Sanseido Co.,Ltd. 編者:松村明 編 発行者:株式会社 三省堂 ※ 書籍版『大辞林第三版』の図表・付録は収録させておりません。 ※ それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

大隈重信
おおくましげのぶ
[生]天保9(1838).2.16. 肥前,佐賀
[没]1922.1.10. 東京
政治家,佐賀藩士。明治維新の際,討幕運動に加わる。維新政府成立後,明治1 (1868) 年徴士として中央政府に出仕。外国事務局判事となり長崎に勤める。同2年大蔵大輔となり,次いで民部大輔を兼ねた。同3年参議,1873年大蔵省事務総裁となり,81年政変により下野するまで実務官僚として明治政府初期の財政を運営,81年日本最初の国家予算案,歳入出見込会計表を頒布し,同年 10月大蔵卿となった。明治十四年の政変で下野したのち,82年立憲改進党を創設,総理につき,以後民党政治家の道を進んだ。同年 10月東京専門学校 (早稲田大学 ) を開設。 88年第1次伊藤内閣の外相として入閣,引続き黒田内閣の外相として条約改正に取組んだが,外国人判事登用案を非難され来島恒喜に爆殺をはかられ片足を失った。 98年に内閣総理大臣として憲政党を基盤にした日本最初の政党内閣隈板内閣組閣したが,党内抗争と,薩長の妨害でわずか4ヵ月で総辞職した。また,1914年シーメンス事件,第1次憲政擁護運動の渦中にあって,組閣に窮した井上馨,山県有朋ら藩閥勢力の誘引に乗り再度首相に就任した。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

日本大百科全書(ニッポニカ)

大隈重信
おおくましげのぶ
(1838―1922)
明治・大正期の政治家。天保(てんぽう)9年2月16日肥前国(ひぜんのくに)佐賀会所小路に、佐賀藩砲術長の父信保(のぶやす)、母三井子(みいこ)の長男として生まれる。幼名八太郎。1864年(元治1)藩当局に経済政策を建言し、藩の代品方として長崎―兵庫間を往来、このころより長崎でオランダ系アメリカ人宣教師フルベッキに英学を学び、翌年長崎に英語学校致遠館(ちえんかん)を設立しその経営にあたった。1867年(慶応3)3月、将軍徳川慶喜(とくがわよしのぶ)に大政奉還を勧告しようとして副島種臣(そえじまたねおみ)とともに脱藩上洛(じょうらく)したが、捕らえられて佐賀に送還された。
 明治政府成立に際し、1868年3月参与兼外国事務局判事に登用され、キリスト教処分問題でイギリス公使パークスと交渉にあたり、ついで外国官副知事に昇進した。1869年(明治2)2月三枝綾子(さえぐさあやこ)と結婚。同年3月会計官副知事兼任、7月大蔵大輔(たいふ)、ついで民部大輔兼任となり、贋貨(がんか)問題、鉄道電信建設、工部省設置などに尽力し、1870年9月参議となり、1873年10月大蔵卿(きょう)を兼任、1880年2月参議専任となった。この間、岩倉具視(いわくらともみ)一行の遣欧中の留守政府内では西郷隆盛(さいごうたかもり)らの征韓論に反対の立場をとり、ついで大久保利通(おおくぼとしみち)の下で財政を担当しつつ、秩禄(ちつろく)処分、地租改正を進め、大久保没後は参議筆頭となって殖産興業政策を推進した。いわゆる大隈財政が展開されたのがこの時期で、他面、三菱(みつびし)と親密な関係をも結んだ。1881年3月国会開設意見書を提出して政党内閣制を基軸とする即時議会開設を主張するとともに、おりからの北海道開拓使官有物払下げに反対したため、薩長(さっちょう)勢力および宮廷グループに排斥され、10月参議を辞任し、同時に大隈派官僚多数も連袂(れんべい)辞職した(明治十四年の政変)。
 政変後、政党結成を実行に移し、1882年4月矢野文雄、小野梓(おのあずさ)らと立憲改進党を結成してその総理となり、また10月小野や高田早苗(たかださなえ)らの尽力を得て東京専門学校(1902年早稲田(わせだ)大学と改称)を創立した。1884年12月名目上、立憲改進党を脱党。1888年2月第一次伊藤博文(いとうひろぶみ)内閣の外務大臣となり、ついで黒田清隆(くろだきよたか)内閣にも留任して条約改正交渉にあたったが、外人裁判官任用問題で世論の大反対にあい、翌年玄洋社(げんようしゃ)社員来島恒喜(くるしまつねき)に爆弾を投げつけられて負傷し右脚を切断。12月外相を辞任して枢密顧問官となった。議会開設に伴い、1891年12月立憲改進党に復党し代議士総会長に就任。1896年3月同党を中心に進歩党を結成して党首となり、9月薩派と妥協して第二次松方正義(まつかたまさよし)内閣の外務大臣となった(松隈内閣(しょうわいないかく))。翌年3月農商務大臣を兼任したが、薩派とあわず11月辞任。1898年6月板垣退助(いたがきたいすけ)とともに自由党と進歩党を合同して憲政党を結成し、最初の政党内閣第一次大隈内閣(隈板内閣(わいはんないかく))を組織した。しかし、両派の対立と閣内確執のため、党は自由党系の憲政党と進歩党系の憲政本党に分裂し、内閣は4か月で総辞職した。1900年(明治33)12月憲政本党総理に就任し、政党活動を続行したが、1907年1月辞任して、一時政界から引退、4月早稲田大学総長に就任した。第一次憲政擁護運動ののち、ふたたび政界に復帰し、1914年(大正3)4月第二次大隈内閣を組織、内務大臣を兼任した。第一次世界大戦に参戦し、1915年には対華二十一か条要求を提出、また2個師団増設などの軍備拡張を行った。同年8月内閣を改造して外務大臣を兼任し、1916年7月侯爵に叙せられたのちの10月に総辞職した。
 大隈は政治家であると同時に広く明治文明の推進者としての功績をもっている。早稲田大学の創設をはじめとして終生教育事業に力を尽くし、また国書刊行会、大日本文明協会の設立、『新日本』『大観』などの雑誌の主宰、『開国五十年史』『開国大勢史』の著述などによって、立憲君主制の国家にふさわしい国民の養成に精励した。一度も洋行せず、弁論家であったが直筆を残さず、また、博覧強記で「大風呂敷(おおぶろしき)」と陰口もされたが、民衆政治家と目されていたことも事実であった。大正11年1月10日胆石症で死去。日比谷(ひびや)公園で国民葬が行われた。墓所は東京都文京区護国寺。[佐藤能丸]
『大隈侯85年史編纂会編・刊『大隈侯85年史』3巻・別巻1(1926) ▽中村尚美著『大隈重信』(1961・吉川弘文館) ▽柳田泉著『明治文明史における大隈重信』(1962・早稲田大学出版部) ▽河野昭昌「大隈重信論著目録」(『早稲田大学史記要』6~8所収・1973~1975・早稲田大学史編集所) ▽早稲田大学大学史資料センター編『大隈重信関係文書』全10巻・別巻1(2004~ ・みすず書房)』

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

精選版 日本国語大辞典

おおくま‐しげのぶ【大隈重信】
政治家。侯爵。名は八太郎。佐賀藩出身。参議、大蔵卿を経て明治一五年(一八八二)立憲改進党を結成して自由民権運動に参加。同年東京専門学校(早稲田大学の前身)を創立。伊藤・黒田両内閣の外相となり、条約改正を断行。しかし、その内容が屈辱的と非難され、爆弾を投じられて右足を失う。同三一年憲政党の総理に推され、板垣退助と共に最初の立憲制内閣を組閣。大正三年(一九一四)第二次内閣を組閣。同五年、内閣総辞職後は下野して早稲田大学の総長に就任。天保九~大正一一年(一八三八‐一九二二

出典:精選版 日本国語大辞典
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

旺文社日本史事典 三訂版

大隈重信
おおくましげのぶ
1838〜1922
明治・大正時代の政治家
肥前藩出身。明治政府の参議・大蔵卿などを歴任。明治十四年の政変で下野し,翌1882年立憲改進党を結成し党首となった。また東京専門学校(現早稲田大学)を創立した。'88年黒田清隆内閣の外相として条約改正に努力したが,国粋主義者に襲われ負傷し,辞職。'96年進歩党党首として松方正義内閣に入閣。'98年憲政党を結成し,同年日本初の政党内閣(隈板 (わいはん) 内閣)を組織した。1914年第2次内閣を組織し,第一次世界大戦に参加。中華民国政府に二十一カ条要求を提出し,その大部分を承認させた。政界引退後も,教育問題をはじめ多方面に弁論を展開,言論界重鎮であった。

出典:旺文社日本史事典 三訂版
執筆者一覧(50音順)
金澤利明 竹内秀一 藤野雅己 牧内利之 真中幹夫
 
Copyright Obunsha Co.,Ltd. All Rights Reserved.
それぞれの項目は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

大隈重信」の用語解説はコトバンクが提供しています。

大隈重信の関連情報

他サービスで検索

(C)The Asahi Shimbun Company /VOYAGE MARKETING, Inc. All rights reserved.
No reproduction or republication without written permission.