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大岡忠相【おおおかただすけ】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

大岡忠相
おおおかただすけ
[生]延宝5(1677).江戸
[没]宝暦1(1751).12.19.江戸
江戸時代中期の江戸町奉行として有名。大岡忠高の子。大岡忠真の養子となり,元禄 13 (1700) 年寄合,その後山田奉行。山田奉行時代,紀伊領と関係のあった問題を紀州藩に気がねせずに解決して,徳川吉宗に認められ,後年,吉宗が将軍に就任したとき江戸町奉行に抜擢されたといわれる。忠相は江戸南町奉行の職にあって越前守と称せられ,その事績と活躍ぶりは「大岡政談」となって世に親しまれている。享保9 (1724) 年の札差仲間官許とその取り締まり,同 14年の古借利金引下令による騒動の解決,罪刑の連座制廃止や拷問の軽減などを行なったが,一般的には刑罰を軽くしたことで江戸庶民のアイドルとして慕われたことは否定できない。町奉行を 20年間つとめ,元文1 (1736) 年 60歳で寺社奉行となり,江戸城雁間の末席に加えられて大名並みの待遇を受けた。寛延1 (1748) 年にはそれまでの領地に合せて三河国に 4080石の加増を受け,1万石の大名に列せられた。

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デジタル大辞泉

おおおか‐ただすけ〔おほをか‐〕【大岡忠相】
[1677~1752]江戸中期の幕臣。8代将軍徳川吉宗に認められ、江戸町奉行となる。公正な判断を下す名奉行として有名。越前守(えちぜんのかみ)と称した。のち寺社奉行奏者番三河1万石の大名。→大岡裁き大岡政談

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

大岡忠相 おおおか-ただすけ
1677-1752* 江戸時代前期-中期の武士,大名。
延宝5年生まれ。大岡忠高の4男。享保(きょうほう)2年8代将軍徳川吉宗によって江戸町奉行にとりたてられ越前守(えちぜんのかみ)と称した。公正な裁判,物価の安定,町火消の結成,小石川養生所の設立などに力をそそぎ名奉行といわれた。のち寺社奉行。寛延元年奏者番をかね,加増されて三河(愛知県)西大平藩主となった。1万石。宝暦元年12月19日死去。75歳。通称は市十郎,忠右衛門。
【格言など】下情に通じざれば裁きは曲がる(「甲子(かっし)夜話」)

出典:講談社
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江戸・東京人物辞典

大岡忠相
1677〜1751(延宝5〜宝暦元)【町奉行】享保の改革を支え、名判官といわれた町奉行で、一万石の大名へ出世。 幕臣。書院番から目付、山田奉行、普請奉行などをへて、将軍吉宗により1717年、江戸南町奉行に登用された。町火消制度の開始、小石川養生所や目安箱の創設をはじめ、商人の仲間・組合を公認するなど、享保の改革を実務で支えた。後、武蔵野新田開発にもあたり、寺社奉行をへて48年三河国西大平藩一万石の大名となり、越前守に任ぜられた。

出典:財団法人まちみらい千代田
監修:江戸東京博物館 都市歴史研究室長 北原 進
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世界大百科事典 第2版

おおおかただすけ【大岡忠相】
1677‐1751(延宝5‐宝暦1)
江戸中期の幕臣,政治家。幼名は求馬,のち市十郎,忠右衛門。先祖は徳川氏三河以来の譜代。忠高の第4子。1686年(貞享3)同姓の忠真の養子となる。93年(元禄6)実兄八丈島流罪,96年一族の忠英(書院番)が番頭を殺害してみずからも死ぬという事件が起き,彼の一族とともに連座するという不幸にあうが,以降は順調であった。すなわち1700年に養父の遺跡1920石を継ぎ,02年書院番,04年(宝永1)徒頭,07年使番,08年目付を経て12年(正徳2)山田奉行となり,従五位下能登守となる。

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大辞林 第三版

おおおかただすけ【大岡忠相】
1677~1751 江戸中期の幕臣。八代将軍徳川吉宗に抜擢されて江戸町奉行となり、越前守と称す。公正な裁判とすぐれた市政で知られた。のち、三河西大平の大名となった。

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日本大百科全書(ニッポニカ)

大岡忠相
おおおかただすけ
(1677―1751)
江戸中期の幕府行政官。幼名求馬(もとめ)、のち市十郎、忠右衛門。旗本大岡忠高(2700石)の四男、同族忠真(ただざね)(1920石)の養子となる。1702年(元禄15)書院番士に任ぜられ、順調に昇進して12年(正徳2)山田奉行(ぶぎょう)となり、従(じゅ)五位下能登守(のとのかみ)に叙任。俗説ではここで当時の紀州藩主、後の8代将軍徳川吉宗(よしむね)に認められたというが疑わしい。16年(享保1)江戸に戻って普請(ふしん)奉行、翌17年町奉行に登用され、越前守(えちぜんのかみ)に改める。36年(元文1)旗本としてはまったく異例な寺社奉行に昇進、ついで奏者番(そうじゃばん)を兼ね、三河国西大平(にしおおひら)(愛知県岡崎市)に陣屋をもつ1万石の大名となる。
 忠相は名奉行として講談、落語、演劇などで有名であるが、その名裁判物語はほとんど彼の事績とは関係なく、中国やインドの故事、あるいは忠相以外の奉行の逸話などが彼の事績として集積、脚色されたものである。しかし忠相はその昇進の早さからみて、すでに吉宗以前からその才腕が認められていたと考えられる。享保(きょうほう)期(1716~36)の司法面の改革においても、審理の促進、公正化などに重要な役割を演じたばかりでなく、100万都市に膨張した江戸の行政官としても、防火、救貧、風俗問題や物価対策などと取り組み、さらに1722年から45年(延享2)まで地方(じかた)御用掛を兼務し、関東地方の幕領の経営や開発、治水工事などに尽力した。彼の性格は、逸話などでは機知に富み、人情味あふれた人物として描出されているが、その日記などを通じて推測するに、きわめてきちょうめんで勤勉かつ誠実な人物であったことが想像できる。また、その配下に国学者加藤枝直(えなお)、蘭学者(らんがくしゃ)青木昆陽(こんよう)、数学者野田文蔵、農政功者田中丘隅(きゅうぐ)、簑(みの)正高など多方面の識者を抱えていたことも注意を要する。宝暦(ほうれき)元年12月19日没。相模(さがみ)国高座(こうざ)郡堤村(神奈川県茅ヶ崎(ちがさき)市)浄見寺に葬られる。[辻 達也]
『辻達也著『大岡越前守』(中公新書)』

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精選版 日本国語大辞典

おおおか‐ただすけ【大岡忠相】
江戸中期の幕臣。越前守。八代将軍徳川吉宗に登用され名奉行といわれたが、いわゆる「大岡裁き」は、和漢の裁判説話によって作為されたものが多い。町奉行ののち奏者番兼寺社奉行、三河一万石の大名となる。延宝五~宝暦元年(一六七七‐一七五一

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