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大宰府【だざいふ】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

大宰府
だざいふ
奈良,平安時代に対外防備および九州を総管するために筑前国筑紫郡 (在の福岡県太宰府市) におかれた役所。古くから大陸との交通の要地を占め,白村江で唐,新羅の水軍に敗れた大和朝廷が大陸に対する防衛基地として創設したもの。創設年は不明であるが,天智初年には存在したと思われる。令制のもとで整備。九州,壱岐,対馬などを管轄し,外敵を防ぎ,外交を司った。 (そつ。長官) 以下,大少弐,大少監,大少典の四等官がおかれ,平安時代以来,帥には親王が任じられたので,権帥または大弐が長官の実務をとった。民政,軍事,外交,司法,警察権をもった西海道の独立行政府で,官衙には都府楼と呼ばれる政庁のほかに,学業院,蔵司,税司,薬司,鴻臚館 (こうろかん) ,警固所などがあった。鎌倉時代になっても名称,職員などは存続したが,鎮西探題 (→九州探題 ) がおかれると,その機能はまったく失われた。

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朝日新聞掲載「キーワード」

大宰府
7世紀に筑前国(現在の福岡県の一部)に設置された行政機関。九州全域の統括機関であるとともに、外交や防衛など国家機能も担った。「遠(とお)の朝廷(みかど)」と呼ばれ、奈良に似た都市整備がなされたともいわれる。
(2016-11-29 朝日新聞 朝刊 1社会)

出典:朝日新聞掲載「キーワード」

大宰府
7世紀に筑前国(現在の福岡県の一部)に設置された行政機関。九州全域の統括機関であるとともに、外交や防衛など国家機能も担った。「遠(とお)の朝廷(みかど)」と呼ばれ、奈良の都に似た都市整備がなされたともいわれる。
(2016-11-29 朝日新聞 朝刊 2社会)

出典:朝日新聞掲載「キーワード」

デジタル大辞泉

だざい‐ふ【大宰府】
律令制で、九州および壱岐(いき)対馬(つしま)を管轄し、また、外交・海防などに当たった役所。長官の帥(そち)以下の四等官のほか祭祀(さいし)をつかさどる主神(かんづかさ)が置かれた。平安時代以後、親王が帥に任じられるようになって政務は権帥(ごんのそち)が執ったが、中世には実際の機能を失った。現在の福岡県太宰府市に遺跡がある。遠(とお)の朝廷(みかど)。おおみこともちのつかさ。
[補説]地名別項。→太宰府

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おおみこともち‐の‐つかさ〔おほみこともち‐〕【大府】
だざいふ(大宰府)」に同じ。

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防府市歴史用語集

大宰府
 律令[りつりょう]時代に筑前[ちくぜん]国に置かれた中央の出先機関です。外交使節との交渉接待などを行いました。

出典:ほうふWeb歴史館
Copyright 2002,Hofu Virtual Site Museum,Japan
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世界大百科事典 第2版

だざいふ【大宰府】
律令制下の西海道(九州)9国3島(824年以降は2島)の内政を総管し,内外使節の送迎や海辺防備などを担当した地方官衙。現在の福岡県太宰府市に置かれ,遺跡は特別史跡。律令地方行政は中央政府の諸国直轄を原則とするが,古くから大陸への門戸として対外交渉に重要な役割を果たしてきた九州には例外的に大宰府を置き,特別行政区として諸国島を統轄させた。 536年に朝鮮半島への兵站基地として那津(なのつ)(現,福岡市)に修造された官家(みやけ)を先駆とする。

出典:株式会社平凡社
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大辞林 第三版

おおみこともちのつかさ【大宰府】
だざいふ(大宰府)に同じ。

出典:三省堂
(C) Sanseido Co.,Ltd. 編者:松村明 編 発行者:株式会社 三省堂 ※ 書籍版『大辞林第三版』の図表・付録は収録させておりません。 ※ それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

日本大百科全書(ニッポニカ)

大宰府
だざいふ
古代において西海道(さいかいどう)(九州)全域を行政下に置き、外寇(がいこう)の防衛と外交の衝にあたる権限を与えられた官庁である。それに類する役所の起源については3世紀、卑弥呼(ひみこ)が伊都(いと)国に一大率(いちだいそつ)を置いて大陸交渉の監察にあたらせたこともあげられるが、6世紀の前半、筑紫君磐井(つくしのきみいわい)の平定後、宣化(せんか)天皇は那ノ津(なのつ)に官家(みやけ)を設け、諸臣に命じて軍粮(ぐんろう)を運輸せしめて非常に備えさせたことをあげるべきであろう。だが、実際に「筑紫大宰(つくしのたいさい)」の名の初見は、609年(推古天皇17)である。推古(すいこ)朝は、新羅(しらぎ)問題がしばしばおこり、また遣隋使(けんずいし)派遣も始められるという外交上重要な時期だけに「筑紫大宰」の任も重かったようである。大宰府の大きな転換期となったのは、白村江(はくそんこう)の戦い(663)である。唐・新羅の連合軍の前に、百済(くだら)の救援に赴いた日本軍は海戦で大敗した。百済の遺臣らとともに引き揚げてきたが、ただちに唐・新羅の侵攻の脅威にさらされることになった。天智(てんじ)天皇は対馬(つしま)・壱岐(いき)、あるいは筑紫の海岸線に沿って防人(さきもり)を配し、烽(とぶひ)を置いた。同時に防衛を考えて、那ノ津から水城(みずき)の線まで大宰府を後退させた。大宰府の前面の、山地の狭く迫る所を土塁で結んだ。この土塁(大堤)は全長1.2キロメートル、高さ13メートルに及ぶ長大な堤である。土塁には木樋(もくひ)を埋め、事あるときはこれに水を引き、土塁の前面の堀池に水を流し込んだ。それゆえこれを水城と称した。さらに、百済の遺臣たちをして、都府楼(とふろう)の後方の山に大野城をつくらせた。すり鉢状の山の尾根伝いに、1周約6.5キロメートルの土塁や石塁を巡らし、北側の谷は、いわゆる「百間石垣」を築いている。その要所要所には兵舎や武器倉庫、食糧倉庫などの建物がつくられたが、現在60余棟が確認されているという。そのほか、肥前(ひぜん)の椽(き)城、対馬の金田(かねだ)城、讃岐(さぬき)の屋島(やしま)城および大和(やまと)の高安(たかやす)城などが相次いでつくられ、都までの軍事上の要衝地が固められた。しかし、朝鮮の統一をめぐって、唐と新羅が争うこととなり、いちおう日本への攻撃は回避されることとなった。その後、大宰府は、西海道の統轄と外交の任を与えられ、特別行政府としての体制を整えることになったが、その長官には大臣クラスの人物や皇族が選ばれることも多く、大宰府は、『和名抄(わみょうしょう)』で、「おほみこともちのつかさ」と訓(よ)まれ、また「遠(とお)の朝廷(みかど)」ともよばれ大きな権限を与えられることになった。
 令(りょう)制では、「主神(かむつかさ)、帥(そち)、大弐(だいに)、少弐(しょうに)、大監(だいげん)、少監、大典(だいさかん)、少典、大判事(だいはんじ)、少判事、大令史(だいれいし)、少令史、大工(だいく)、少工、博士(はかせ)、陰陽師(おんみょうじ)、医師(くすし)、算師(さんし)、防人正(さきもりのかみ)、防人佑(さきもりのすけ)、令史(りょうし)、主船(しゅせん)、主厨(しゅちゅう)、史生(ししょう)」といった官人構成をなしていた。主神は中央官庁の神祇(じんぎ)官、大宰帥(だざいのそち)以下が太政(だいじょう)官に相当する。大宰府は西海道諸国を統治下に置いたから、いわゆる九国三島(筑前(ちくぜん)、筑後(ちくご)、豊前(ぶぜん)、豊後(ぶんご)、肥前(ひぜん)、肥後、日向(ひゅうが)、大隅(おおすみ)、薩摩(さつま)の九国と壱岐、対馬、多(たね)の三島)が行政下にあった。
 それだけに大宰府を抑えることは政治的にも優位にたつことができた。壬申(じんしん)の乱(672)のときも、近江(おうみ)方はこれを味方に引き入れようと努めたし、藤原広嗣(ひろつぐ)の乱(740)や藤原純友(すみとも)の乱(941)にも、直接この地が争乱の舞台となった。そのたびごとに大宰府は焼失したが、焼け跡を整地した上にまた再建され直された。現在でも、表土の60センチメートルばかり下には平安中期の焼土が堆積(たいせき)し、そのさらに下には奈良朝期の遺構なども検出されている。
 もちろん、大宰府は以上のように政治や軍事の中心であったばかりでなく、文化的にも西海道の拠点であった。仏教では戒壇(かいだん)が設けられた観世音寺(かんぜおんじ)が、学問では学業院(がくぎょういん)が、その地位を占めていた。博士(はかせ)のほか音博士(おんはかせ)もおり、五経とともに『史記』『漢書(かんじょ)』『後漢書(ごかんじょ)』『三国志』『晋書(しんじょ)』など賜下されて、国学生(くにがくしょう)たちを教授していた。
 その後、律令制の弛緩(しかん)に伴い大宰府の機構・統制も衰退し、平安時代に入ると上級官人はほとんど赴任せず、実権は少弐の手に移った。さらに鎌倉幕府が鎮西奉行(ちんぜいぶぎょう)を置くに及び、大宰府は有名無実となった。[井上辰雄]
『鏡山猛著『大宰府都城の研究』(1977・風間書房) ▽倉住靖彦著『大宰府』(1979・教育社)』

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旺文社日本史事典 三訂版

大宰府
だざいふ
律令制下,筑前国に置かれた九州地方の統治機関
現在の福岡県太宰府市にあった。太政官の小型版ともいうべき組織・機能をもち,『万葉集』では「遠の朝廷 (とおのみかど) 」と呼ばれた。9国2島と防人 (さきもり) 司を管轄。大陸との接触点として外国使節応接国防を行った。平安時代には唐やとの私貿易の中心地となったが,鎌倉時代,源頼朝が鎮西奉行を置いて大宰少弐を兼ねさせ,元寇後は鎮西探題が置かれたため,実権が移った。

出典:旺文社日本史事典 三訂版
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