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大塩平八郎【おおしお へいはちろう】

美術人名辞典

大塩平八郎
江戸後期の陽明学者。大坂生。名は後素、字は子起、号は中斎、平八郎は通称。町与力として活躍し、数々献策する。また家塾洗心洞で子弟を教育する。のち天保飢饉に際して民衆救済の乱を起こした。天保8年(1837)歿、44才。

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デジタル大辞泉

おおしお‐へいはちろう〔おほしほヘイハチラウ〕【大塩平八郎】
[1793~1837]江戸後期の陽明学者。阿波の人。大坂の生まれとも。名は後素。号は中斎。大坂町奉行所与力を辞職し、私塾洗心洞(せんしんどう)で子弟の教育にあたった。天保7年(1836)の飢饉(ききん)に際して奉行所に救済を請うたが容れられず、蔵書を売って窮民を救った。翌8年、幕政を批判して大坂で兵を挙げたが、敗れて自殺。著「洗心洞箚記(せんしんどうさっき)」。→天保の飢饉

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

大塩平八郎 おおしお-へいはちろう
1793-1837 江戸時代後期の武士,儒者。
寛政5年1月22日生まれ。大坂東町奉行所で名与力と評される。38歳で辞職,私塾洗心洞(せんしんどう)で陽明学を教授。天保(てんぽう)の飢饉(ききん)に際し奉行所に窮民救済を進言するがいれられず,蔵書をうって救済につとめ,天保8年決起するが鎮圧され,3月27日自刃(じじん)。45歳。名は正高,のち後素。字(あざな)は子起。号は連斎,中斎。著作に「洗心洞箚記(さつき)」「古本大学刮目(かつもく)」など。
【格言など】四海困窮せば天禄永く絶えん。小人に国家を治めしめば災害並び到る(決起の檄文)

出典:講談社
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世界大百科事典 第2版

おおしおへいはちろう【大塩平八郎】
1793‐1837(寛政5‐天保8)
江戸後期の大坂東町奉行所与力で陽明学者。1837年2月に大坂で乱を起こして自殺。父は平八郎敬高,母は大西氏。出生地には大坂天満と阿波美馬郡の2説がある。幼くして両親を失い,与力であった祖父のあとを継ぐ。幼名文之助,長じて平八郎と称し,諱(いみな)は正高,のち後素。字は子起,士起,与力退職後は連斎または中斎という。与力在職中,東町奉行高井実徳に重用されて下記の三大功績をあげ,世に廉直の評が高かった。すなわち1827年(文政10)豊田貢(みつぎ)らのキリシタン類似の宗教を弾圧し,29年には四ヵ所非人と結んで不正を働いた西町奉行所筆頭与力弓削新右衛門を処断し,30年には破戒僧数十名を遠島の刑に処した。

出典:株式会社平凡社
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大辞林 第三版

おおしおへいはちろう【大塩平八郎】
1793~1837) 江戸後期の陽明学者。大坂の人。もと大坂町奉行の与力。号は中斎。家塾「洗心洞」を開き子弟に教授。天保の飢饉(1836年)のとき救済を町奉行所に訴えたが入れられず、蔵書を売って難民を救う。翌年二月門下の与力・同心などと、幕政を改めさせるために挙兵したが失敗して自殺。著「洗心洞箚記」

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

大塩平八郎
おおしおへいはちろう
[生]寛政5 (1793).大坂
[没]天保8 (1837).3.27. 大坂
江戸時代後期の陽明学者。父は大坂町奉行所与力大塩敬高。名は後素,字は子起,通称平八郎,中斎と号した。家塾を洗心洞と称する。大塩家は代々大坂町奉行所の与力であった。平八郎も与力職につき,のち文政3(1820)年東町奉行高井山城守実徳に重用され吟味役となり,邪教事件や賄賂政治処断などに敏腕をふるい名声を博した。天保1(1830)年高井の辞職とともに養子格之助に職を譲り隠退し,学問に専念する。同 7年の大飢饉に際していわゆる「大塩平八郎の乱」を起こした。著書『古本大学刮目』(1832成立),『洗心洞劄記』(1832成立)。

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日本大百科全書(ニッポニカ)

大塩平八郎
おおしおへいはちろう
(1793―1837)
江戸後期の陽明学者、大坂町奉行与力(まちぶぎょうよりき)。諱(いみな)は後素、字(あざな)は子起、号は連斎、中斎など。幼少期に父母を亡くしたため、大坂町奉行与力だった祖父の嗣(し)となり、13~14歳ころより町奉行所に出仕する。かたわら、ほとんど独学にて陽明学を修得し、30代の前半に自宅に私塾「洗心洞(せんしんどう)」を開く。門弟には、江戸時代後期、動揺する幕藩制支配の最末端を担った大坂町奉行の与力・同心や、近隣の農村の村落支配者層が多かった。大坂町奉行与力としては切支丹(キリシタン)逮捕、奸吏(かんり)糺弾、破戒僧遠島等々の実績をあげ、与力としての役職の頂点に昇るが、上司の高井山城守(やましろのかみ)(実徳(さねのり)、1763―1834)の辞任と進退をともにし、38歳にて致仕する。以後は「洗心洞」での講学と著述に専心し、『洗心洞箚記(さっき)』上下2巻、『儒門空虚聚語(しゅうご)』2巻、『同附録』1巻、『増補孝経彙註(いちゅう)』1巻、『古本大学刮目(かつもく)』8巻などの著述をなす。その陽明学は経書の解釈において、また、中国・宋明(そうみん)時代の儒者の著作の博引ぶりにおいて、幕末の儒林で有数のものである。1836年(天保7)、年来の大飢饉(ききん)のなかで大坂市中に餓死人が続出すると、陽明学の「万物一体の仁」の立場より、その惨状を傍観視できず、当局に救済策を上申するが拒否される。翌1837年2月、近隣の農民に檄文(げきぶん)を飛ばし、大坂市中の諸役人とそれと結託した特権豪商を誅伐(ちゅうばつ)するため、門弟とともに挙兵するが、小一日もちこたえられず敗走。市中潜伏中、幕吏に囲まれ、同年3月27日自刃。墓は大阪市北区末広町、成正寺(じょうしょうじ)内にある。[宮城公子]
『宮城公子編『大塩中斎』(『日本の名著27』所収・1984・中央公論社) ▽岡本良一著『大塩平八郎』改訂版(1975・創元社) ▽宮城公子著『大塩平八郎』(1977・朝日新聞社/復刊・2005・ぺりかん社) ▽幸田成友著『大塩平八郎』(中公文庫)』

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367日誕生日大事典

大塩平八郎 (おおしおへいはちろう)
生年月日:1793年1月22日
江戸時代後期の儒学者;大坂東町奉行所与力
1837年没

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精選版 日本国語大辞典

おおしお‐へいはちろう【大塩平八郎】
江戸後期の陽明学者。号、中斎。大坂町奉行所与力。辞職後は私塾洗心洞で著述に専念。天保の大飢饉(ききん)に際し、農民を救うため兵を起こしたが、失敗して自殺。著「洗心洞箚記」。寛政五~天保八年(一七九三‐一八三七

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歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典

大塩平八郎
(通称)
おおしおへいはちろう
歌舞伎・浄瑠璃の外題。
元の外題
浪花潟入江大塩 など
初演
明治5.7(東京・村山座)

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