Rakuten infoseek

辞書

大友義統【おおとも よしむね】

美術人名辞典

大友義統
戦国・安土桃山時代武将宗麟の子。幼名は長寿丸。豊後外六ヶ国の所領をめぐって島津氏と戦を繰り返すが、豊臣秀吉の九州平定により豊後一国を安堵される。朝鮮での敗戦により改易され、関ケ原では西軍に加担、敗れて常陸閉された。慶長10年(1605)歿、58才。

出典:(株)思文閣

デジタル版 日本人名大辞典+Plus

大友義統 おおとも-よしむね
1558-1605 織豊時代の武将。
永禄(えいろく)元年生まれ。大友宗麟(そうりん)の長男。豊臣秀吉の九州攻めにしたがい,豊後(ぶんご)(大分県)一国を安堵(あんど)される。文禄(ぶんろく)2年朝鮮出兵(みん)(中国)の大軍とたたかわずに退却し,除封。関ケ原の戦いでは西軍についたため,出羽(でわ)秋田郡の秋田家にあずけられた。慶長10年7月19日死去。48歳。名はのち吉統。幼名は長寿丸。洗礼名はコンスタンチノ。

出典:講談社
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

世界大百科事典 第2版

おおともよしむね【大友義統】
1558‐1605(永禄1‐慶長10)
豊後を本拠とした戦国末~豊臣期の大名。宗麟の子。1575年(天正3)ころ豊後,豊前筑前筑後肥前肥後と日向の一部を父より相続。78年島津氏制圧のため日向に出兵して大敗。権力中枢の年寄過半を討死させ,権力機能が低下したため国内反乱,島津氏北上に対抗できず,86年豊臣秀吉の出兵に救われ豊後一国の大名となる。93年(文禄2)秀吉の朝鮮侵略で出兵中,明の大軍と戦わずして退去したため改易。関ヶ原の戦の際,豊後で再起をはかったが失敗。

出典:株式会社平凡社
Copyright (c) Heibonsha Limited, Publishers, Tokyo. All rights reserved.

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

大友義統
おおともよしむね
[生]永禄1(1558)
[没]慶長10(1605).7.19. 江戸
戦国大名。義鎮の子。豊臣秀吉の島津征伐に従って豊後を安堵されたが,朝鮮の役中の卑怯な行動で所領を収され,のち関ヶ原の戦いでは豊臣方について豊後で挙兵したが,黒田氏のために敗れ,江戸幽居中死亡。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

日本大百科全書(ニッポニカ)

大友義統
おおともよしむね
(1558―1605)
戦国時代の武将。義鎮(よししげ)(宗麟(そうりん))の長子。幼名長寿丸、のち将軍足利義昭(あしかがよしあき)の諱(いみな)を得て義統と称す。1576年(天正4)家督を相続したが(一説に79年)、政事はすべて父の手にゆだねられていた。87年豊臣(とよとみ)秀吉の島津征伐に従い功あり、豊後(ぶんご)(大分県)一国の安堵(あんど)を受けたが、文禄(ぶんろく)の役に従軍、平壌退却で秀吉の怒りを買い、封を没収され毛利輝元(もうりてるもと)に預けられた。秀吉の死後、徳川家康に近づいたが、関ヶ原の戦いで西軍に属して敗れ、東国に幽せられ、常陸(ひたち)(茨城県)宍戸(ししど)(一説に江戸・牛込(うしごめ))で没した。先に87年宣教師より受洗、コンスタンチノの教名を受けたが、のち秀吉の意を迎え棄教、領内信徒を迫害した。[箭内健次]

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

大友義統」の用語解説はコトバンクが提供しています。

大友義統の関連情報

他サービスで検索

(C)The Asahi Shimbun Company /VOYAGE MARKETING, Inc. All rights reserved.
No reproduction or republication without written permission.