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大内義弘【おおうちよしひろ】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

大内義弘
おおうちよしひろ
[生]正平11=延文1(1356)
[没]応永6(1399).12.21. 和泉,堺
南北朝~室町時代前期の武将。弘世の子。父から周防,長門,石見の守護職を継いだ。建徳2=応安4 (1371) 年以降九州探題今川貞世に従い,安芸,豊前に出陣,元中8=明徳2 (91) 年,明徳の乱の功により和泉,紀伊を与えられ,周防,長門,石見,豊前,和泉,紀伊6ヵ国の守護となった。翌年,南北朝合一に尽力して功をあげ,また朝鮮との交易にも力を入れて富と権勢を増し,ついに幕府と対立するにいたった。幕府の圧迫を恐れた義弘は,応永6 (99) 年,鎌倉御所足利満兼らとはかり,堺に拠って兵をあげたが敗死。 (→応永の乱 )  

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デジタル大辞泉

おおうち‐よしひろ〔おほうち‐〕【大内義弘】
[1356~1400]室町前期の武将周防など6か国の守護。南北朝合一に尽力。朝鮮と交易。3代将軍足利義満と対立し、鎌倉公方(くぼう)満兼と通じて応永の乱を起こしたが堺で敗死。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

大内義弘 おおうち-よしひろ
1356-1400* 南北朝-室町時代の武将。
延文元=正平(しょうへい)11年生まれ。大内弘世の子。周防(すおう),長門(ながと),豊前(ぶぜん)の守護。明徳の乱(1391)では将軍足利義満に味方し,戦功により和泉(いずみ),紀伊(きい)の守護職もえる。倭寇(わこう)をとりしまり,朝鮮との貿易で富をえた。応永(おうえい)6年幕府と対立して応永の乱をおこし,堺で12月21日討ち死にした。44歳。幼名は孫太郎。

出典:講談社
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防府市歴史用語集

大内義弘
 大内弘世[おおうちひろよ]の子で、南北朝[なんぼくちょう]をまとめるのに功績がありました。また、朝鮮との貿易の実権をにぎりますが、勢力の増大によって将軍・足利義満[あしかがよしみつ]と不仲になり、堺で反乱をおこしますが、討たれてしまいます。

出典:ほうふWeb歴史館
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世界大百科事典 第2版

おおうちよしひろ【大内義弘】
1356‐99(正平11∥延文1‐応永6)
室町前期の武将。周防介,のち左京権大夫。1371年(建徳2∥応安4)以来,探題今川貞世(了俊)の九州経略に協力し,南朝菊池武朝を破るなどの功をたて豊前守護職に補された。また父弘世より周防・長門・石見守護職を継承し中国,九州に勢力を確立した。明徳の乱(1391)では洛北で山名氏鎮圧に功があり,その旧領和泉・紀伊守護職を獲得,翌年には南朝との講和斡旋に尽力し南北朝合一を実現させ,6ヵ国の有力守護として将軍足利義満を支えた。

出典:株式会社平凡社
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大辞林 第三版

おおうちよしひろ【大内義弘】
1356~1399) 室町初期の武将。周防を中心とする六か国の守護。明徳の乱を鎮定、南北朝合一に尽力。のち、幕府と対立し応永の乱を起こしたが敗死。

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日本大百科全書(ニッポニカ)

大内義弘
おおうちよしひろ
(1356―1399)
室町前期の武将。弘世(ひろよ)の子。幼名孫太郎。周防介(すおうのすけ)、左京権大夫(さきょうごんだゆう)。周防、長門(ながと)、豊前(ぶぜん)、和泉(いずみ)、紀伊の5か国の守護。1371年(建徳2・応安4)九州探題今川貞世(いまがわさだよ)(了俊(りょうしゅん))に従い転戦、77年(天授3・永和3)には懐良(かねよし)親王を奉ずる菊池武朝(たけとも)を大破する。89年(元中6・康応1)の足利義満(あしかがよしみつ)の厳島参詣(いつくしまさんけい)に際して防府にて迎え、義弘はこれに随行して上洛(じょうらく)、以後在京が多くなる。91年(元中8・明徳2)の明徳(めいとく)の乱では幕府方として山名氏清(やまなうじきよ)らを破るなど活躍し、その功により山名氏の旧領国である和泉、紀伊の守護職を与えられた。また南北朝合体斡旋(あっせん)に尽力した。さらに室町幕府と朝鮮との通交に仲介の労をとり、自らも朝鮮と交易して強盛を誇った。99年(応永6)義弘は、大内氏が百済(くだら)の後裔(こうえい)であることを理由に、その縁故の土地を分けてくれるように朝鮮に要求していることは注目に値する。同年、義弘は鎌倉公方(くぼう)足利満兼(みつかね)や山名時清(やまなとききよ)らと謀って応永(おうえい)の乱を起こしたが、地方での挙兵も鎮圧され、和泉堺(いずみさかい)に拠(よ)った義弘も幕府軍の攻囲を受け、12月21日敗死した。義弘はまた和歌、連歌に通じ、『新後拾遺(しんごしゅうい)和歌集』の作者に列している。死後堺の義弘山(ぎこうさん)妙光寺(みょうこうじ)に葬られたが、のちに、彼が生前山口に建立した菩提寺(ぼだいじ)香積寺(こうしゃくじ)(現瑠璃光寺(るりこうじ))に移葬された。なお瑠璃光寺の五重塔(国宝)は香積寺の遺物で、義弘の菩提を弔うために、弟の盛見(もりはる)が応永年中(1394~1428)に造立したものと伝えられる。[外園豊基]
『松岡久人著『大内義弘』(1966・人物往来社)』

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精選版 日本国語大辞典

おおうち‐よしひろ【大内義弘】
室町前期の武将。弘世の子。法号、有繋。明徳の乱などに功をたて、周防、長門、豊前、石見、和泉、紀伊六国の守護となる。のち、将軍足利義満と対立して応永の乱を起こしたが、和泉堺で敗死。法名秀山弘実など。正平一一~応永六年(一三五六‐九九

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