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土佐藩【とさはん】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

土佐藩
とさはん
高知藩ともいう。江戸時代,土佐国 (高知県) を領有した藩。藩主は代々山内氏。戦国時代から関ヶ原の戦い後まで長宗我部盛親の所領であったが,長宗我部氏が西軍側について所領を没収されると,慶長5 (1600) 年 11月に遠江 (静岡県) 掛川にいた山内一豊が 20万 2600石で入封,同9年に大高坂山に高知城を築き城下町を開いた。2代忠義は,土佐南学でも知られる野中兼山を登用して藩政を確立した。その後,9代豊雍 (とよちか) は谷真潮,箕浦行直らを登用して天明の改革を断行し,次いで 12代豊資は天保の改革を行い,株仲間を解散するなど,徹底した財政改革を行なった。歴代藩主で最も名高いのは 15代豊信 (とよしげ。容堂) で,安政年間 (1854~60) に吉田東洋を中心とする実力主義の官僚機構を整備し,さらに幕末の公武合体運動の中心大名として活躍。藩主は公武合体派であったが,藩政の主流であった後藤象二郎らは坂本龍馬の指導によって大政奉還を主張し,また中岡慎太郎板垣退助,谷干城らは武力討幕を主張して薩長と同盟を結んで明治維新の中心勢力の一つとなった。新田高を含め幕末には 49万石となった。外様,江戸城大広間詰。

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防府市歴史用語集

土佐藩
現在の高知県域。幕末には、山内豊信[やまのうちとよしげ](容堂[ようどう])が安政の大獄[あんせいのたいごく]により藩主を退いた後も活躍しました。土佐藩出身の人としては、坂本龍馬[さかもとりょうま]や中岡慎太郎[なかおかしんたろう]などが活躍しています。

出典:ほうふWeb歴史館
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デジタル大辞泉プラス

土佐藩
土佐国、高知(現:高知県高知市)を本拠地とし、土佐国一国を領有した外様藩。関ヶ原の戦い後、長宗我部盛親(ちょうそがべもりちか)に代わり山内一豊(やまうちかずとよ)が20万2600石で入封。以後山内氏が幕末まで16代にわたり藩主をつとめた。江戸初期の南学者・野中兼山、幕末から明治期に活躍した坂本竜馬、板垣退助、岩崎弥太郎などの人材を輩出している。

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藩名・旧国名がわかる事典

とさはん【土佐藩】
江戸時代土佐(とさ)国土佐郡高知(現、高知県高知市)に藩庁をおいた外様(とざま)藩。藩校は教授館(こうじゅかん)(のち致道館(ちどうかん))。1601年(慶長(けいちょう)6)、改易(かいえき)された長宗我部盛親(ちょうそがべもりちか)に代わって、山内一豊(やまうちかずとよ)関ヶ原の戦いで東軍に与(くみ)して加増を受け、遠江(とおとうみ)国掛川から入封(にゅうほう)。以後明治維新まで山内氏16代の支配が続いた。石高は20万2600石だったが、新田開発により明治初年には49万石以上に達した。一豊は長宗我部氏旧家臣の反乱に備えるため、重臣らを領内に配置して支配体制を整え、高知城の築城や城下町の整備を進め、2代藩主の忠義(ただよし)は朱子学者の野中兼山(けんざん)を登用して藩政の基礎を固めた。藩内の武士を、山内系藩士の「上士(じょうし)」と、長宗我部氏旧家臣の「郷士(ごうし)」とに厳しく分けた差別化政策は幕末の政争にも影を落とした。15代藩主の山内容堂(ようどう)(豊信(とよしげ))に起用された吉田東洋(とうよう)は安政(あんせい)の改革を断行、そのため武市瑞山(たけちずいざん)(半平太(はんぺいた))の土佐勤王党の反発を買って暗殺された。1867年(慶応3)には、大政奉還の建白書を第15代将軍徳川慶喜(とくがわよしのぶ)に提出。坂本龍馬(さかもとりょうま)をはじめ、中岡慎太郎(なかおかしんたろう)後藤象二郎(ごとうしょうじろう)板垣退助(いたがきたいすけ)岩崎弥太郎(いわさきやたろう)らの人材を輩出、薩摩藩長州藩とともに明治維新の指導的役割を果たした。支藩として中村藩、新田藩があった。1871年(明治4)の廃藩置県により高知県となった。◇高知藩(正称)ともいう。

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世界大百科事典 第2版

とさはん【土佐藩】
土佐国(高知県)高知に藩庁を置いた外様大藩。高知藩ともいう。藩主は山内(やまうち)氏で藩祖山内一豊以下16代。一豊は関ヶ原の戦のあと,遠江国掛川6万石の城主より土佐24万石(朱印高は20万2626石)に栄進,この恩顧の念が明治維新に際しても藩主の行動を制約した。通称石高24万石は,長宗我部(ちようそがべ)検地で打ち出された本田地積を,1反=1石の率で換算した数字で,朱印高は本田に石盛(こくもり)をしたものである。

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日本大百科全書(ニッポニカ)

土佐藩
とさはん
江戸時代、土佐国(高知県)一国を領有した外様(とざま)藩。1600年(慶長5)関ヶ原の戦い後山内一豊(やまうちかずとよ)が土佐藩祖となってから、明治の版籍奉還、廃藩置県に至るまで、忠義(ただよし)、忠豊(ただとよ)、豊昌(とよまさ)、豊房(とよふさ)、豊隆(とよたか)、豊常(とよつね)、豊敷(とよのぶ)、豊雍(とよちか)、豊策(とよかず)、豊興(とよおき)、豊資(とよすけ)、豊煕(とよてる)、豊惇(とよあつ)、豊信(とよしげ)、豊範(とよのり)と16代続いた。石高(こくだか)は20万2600石余だが、実際は長宗我部(ちょうそがべ)検地の結果によると24万8300石余。これが本田高で、新田開発によって幕末維新のころは約50万石となった。高知藩ともいう。
 一豊は入国後、長宗我部遺臣(一領具足(いちりょうぐそく))を弾圧あるいは懐柔(かいじゅう)し、中村、宿毛(すくも)、佐川、窪川(くぼかわ)、本山(もとやま)、安芸(あき)などの要地に一門・重臣を配して支配体制を整え、高知城を築き、城下町を設営した。2代忠義は野中兼山(けんざん)を用いて藩政の基礎を固めた。兼山は新田開発、港湾整備、殖産興業、専売仕法、郷士取り立てなどの政策を実施した。藩士は上士(じょうし)(家老、中老、馬廻(うままわり)、小姓(こしょう)組、留守居(るすい)組)と下士(かし)(郷士、用人、徒士(かち)、足軽、武家奉公人)に分かれ、階級差別は厳しかった。藩の政治は、家老のうちから任命される奉行職(ぶぎょうしょく)(執政(しっせい))が統率したが、実務は中老や馬廻から任命される仕置役(しおきやく)(参政(さんせい))とその下の各奉行があたり、裁判や警察は大目付が下級役職を統轄して行った。さらに藩主側近の近習(きんじゅ)家老がおり、江戸と京都には留守居役、大坂には大坂在役(ざいやく)が置かれ国元との連絡にあたった。民衆支配は町・郡(こおり)・浦の奉行がおり、その下で地域の行政事務を助けたのが庄屋(しょうや)である。高知城下には町会所が置かれ、総年寄、庄屋、年寄、総組頭などの町役人が町政をつかさどったが、豪商が総年寄となって庄屋以下を統率した。郡奉行は村役人を監督したが、村には庄屋・老(としより)(年寄)・組頭が置かれた。山間部の小村には名本(なもと)・老・組頭がおり、小村をあわせたものを郷といい、郷には大庄屋(おおじょうや)・総老・総組頭が置かれた。国境には道番所(関所)が設置され、大庄屋が番頭(ばんがしら)を、名本が番人を兼ねることが多く、国境を警備し、商品の移出には口銀(くちぎん)を取り立てた。農民の年貢米は村方役所に置かれた納所(なっしょ)に集められた。浦分にも村と同じく役人が置かれ、港には分一役(ぶいちやく)とよばれた藩派遣の役人がいて、漁業税や商品税を取り立てた。一般庶民は五人組を組織し、相互扶助と連帯責任を負った生活をしていた。
 こうした職制によって藩政は推進されたが、野中兼山の政治は民衆の不満と政敵の弾劾によって終わりを告げ、寛文(かんぶん)の改替(かいたい)といわれる藩政の転換期を迎えた。以後1752年(宝暦2)の専売制の実施まで藩政は比較的平穏に推移する。藩政は合議制のもとで文治的傾向が強くなるが、その間、地方知行(じかたちぎょう)から蔵米(くらまい)知行への転換、年々の貢租の平均化を図る平等免(ならしめん)が行われ、天和(てんな)の改革(1681)が実施されて藩政の完成期を迎える。「元禄大定目(げんろくおおじょうもく)」の公布はこれを意味するが、幕府の課役や宝永(ほうえい)の地震は藩財政を圧迫し、宝暦(ほうれき)期(1751~1764)に入って藩政は動揺し始める。宝暦から天明(てんめい)(1781~1789)にかけての専売制実施により農民一揆(いっき)が起こるようになるが、9代豊雍によって天明の改革が行われ、いちおうの安定を取り戻した。だが天保(てんぽう)の飢饉(ききん)は大きな打撃となり、13代豊煕は馬淵嘉平(まぶちかへい)らのおこぜ組を起用して藩政改革に乗り出したが、嘉平の心学嫌疑のため挫折(ざせつ)した。それにしても、天保期(1830~1844)に結成された庄屋同盟は後の勤王運動の温床となり、幕末に至って土佐藩は歴史の舞台に登場する。15代豊信(容堂)に起用された吉田東洋(とうよう)は門下の新おこぜ組を手足として安政(あんせい)の改革を断行するが、反吉田の保守門閥層と武市瑞山(たけちずいざん)を盟主とする土佐勤王党の反撃を受け、吉田は勤王党員に暗殺された。文久(ぶんきゅう)(1861~1864)から維新にかけて、容堂の公武合体と勤王党の主張とが絡み合いながら進展してゆくが、坂本龍馬(りょうま)の献策を基本とする大政奉還建白によって土佐藩は時代転換の役割を果たした。明治維新で高知藩となったが、1871年(明治4)廃藩置県により高知県として発足した。[山本 大]
『平尾道雄著『土佐藩』(1965・吉川弘文館) ▽山本大著「土佐藩」(『物語藩史 7』所収・1965・人物往来社)』

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