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品川弥二郎【しながわ やじろう】

美術人名辞典

品川弥二郎
政治家。山口県生。吉田松陰松下村塾に入門、尊王攘夷運動に挺身する。外務省書記官・特命全権公使としてドイツに駐在し、帰国後、宮中顧問官枢密顧問官松方内閣内相等を歴任する。晩年には京都に隠遁。明治33年(1900)歿、58才。

出典:(株)思文閣

デジタル大辞泉

しながわ‐やじろう〔しながはやジラウ〕【品川弥二郎】
[1843~1900]政治家長門(ながと)の人。松下村塾に学び、尊王攘夷運動に活躍。明治24年(1891)松方内閣の内相、翌年総選挙で猛烈な選挙干渉を行って引責辞任

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

品川弥二郎 しながわ-やじろう
1843-1900 幕末-明治時代の武士,政治家。
天保(てんぽう)14年閏(うるう)9月29日生まれ。長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩士。尊攘(そんじょう)運動で活躍。維新後,ヨーロッパに留学。農商務大輔(たいふ)などをへて,第1次松方内閣の内相となる。明治25年の総選挙で選挙干渉をおこない引責辞任。新政府軍の軍歌「宮さん宮さん」の作詞者,信用組合の育成者としても知られる。子爵。明治33年2月26日死去。58歳。名は日孜。字(あざな)は思父。変名橋本八郎

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防府市歴史用語集

品川弥二郎
 1843年に生まれ、松下村塾[しょうかそんじゅく]で学び、尊皇攘夷[そんのうじょうい]運動に参加した人です。明治維新[めいじいしん]後は政府で要職をつとめ、内務大臣[ないむだいじん]をつとめました。1900年に亡くなっています。

出典:ほうふWeb歴史館
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世界大百科事典 第2版

しながわやじろう【品川弥二郎】
1843‐1900(天保14‐明治33)
明治期の政治家。長州藩士分の弥市右衛門の子として生まれ,吉田松陰の松下村塾に学び,禁門の変などで尊攘派の志士として活躍した。鳥羽・伏見の戦で官軍が歌った〈トコトンヤレ節〉の作詞者としても有名である。維新後は明治政府に仕え,1870年(明治3)ドイツに留学し,そのままドイツ公使館に勤めた。76年帰国して内務省,農商務省に勤め,85年から2年間ドイツ公使を務めた。91年第1次松方正義内閣の内務大臣となり,第2回総選挙の指揮をとって〈民党〉議員の選出を阻もうとした。

出典:株式会社平凡社
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大辞林 第三版

しながわやじろう【品川弥二郎】
1843~1900) 政治家。長州藩出身。吉田松陰に学び、尊攘運動に参加。維新後、松方内閣の内相。第二回総選挙で選挙干渉を強行して、世論により辞任。のち西郷従道と国民協会を創立。

出典:三省堂
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

品川弥二郎
しながわやじろう
[生]天保14(1843).9.26. 長州
[没]1900.2.26. 京都
政治家。長州藩の下級藩士。吉田松陰門下。安政の大獄後脱藩,尊王攘夷運動に参加した。戊辰戦争では奥羽鎮撫総督参謀。明治3 (1870) 年に普仏戦争視察のために渡欧,同5年外務省書記官,代理公使としてドイツに駐在。 1876年帰国後,内務大書記官,内務少輔,農商務大輔を歴任して,85~87年駐ドイツ公使。 91年に松方正義内閣の内務大臣となって,92年の第2回総選挙で有名な選挙干渉を行なったが,世論の攻撃により辞任。同年に国民協会をつくって副会頭となった。子爵。

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日本大百科全書(ニッポニカ)

品川弥二郎
しながわやじろう
(1843―1900)
明治時代の官僚政治家。子爵。天保(てんぽう)14年閏(うるう)9月29日、長州藩士の子に生まれる。吉田松陰(よしだしょういん)の松下村塾(しょうかそんじゅく)に学び、高杉晋作(たかすぎしんさく)、久坂玄瑞(くさかげんずい)らと尊王攘夷(そんのうじょうい)運動に活躍、戊辰戦争(ぼしんせんそう)には奥羽鎮撫使(ちんぶし)総督参謀として各地に転戦した。1869年(明治2)に弾正(だんじょう)少忠として明治政府に出仕、翌年大山巌(おおやまいわお)らと普仏戦争の視察のため渡欧、イギリス、ドイツ両国で留学を続け、1873年からドイツ公使館に勤務した。1876年帰国し、内務大丞(だいじょう)、大書記官、少輔(しょうゆう)を歴任して、1881年農商務省の新設に伴い農商務少輔に転じ、翌年大輔(たいふ)となる。その間、大日本農会、大日本山林会、大日本水産会の創立にあたり、共同運輸会社を援助して三菱(みつびし)汽船会社に対抗させるなど、政府の勧業政策全般を指導した。1885年駐独公使に転じ、1887年帰国後は枢密顧問官、宮中顧問官を歴任、一方、宮内省御料局長を兼任して皇室財産の整理にあたった。1891年第一次松方正義(まつかたまさよし)内閣の内相となり、翌年の第2回総選挙では官憲を指揮して大選挙干渉を行い、民党議員の選出を阻止しようとして失敗した。引責辞任後ふたたび枢密顧問官となったが、1892年国民協会の結成を支援してその副会頭に推されたため顧問官を辞任した。しかし日清(にっしん)戦争後国民協会の党勢は振るわず、その間に資産も失い、1899年三たび枢密顧問官に任じられたのを機に党務から離れた。翌明治33年2月26日死去。内相時代に信用組合法を議会に提出、これ以後信用組合設立の機運が生まれたため、産業組合運動の先覚者とされている。[宇野俊一]
『奥谷松治著『品川弥二郎伝』(1940・高陽書院) ▽尚友倶楽部品川弥二郎関係文書編纂委員会編『品川弥二郎関係文書』(1993~ ・山川出版社)』

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