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吉備真備【きびのまきび】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

吉備真備
きびのまきび
[生]持統7/9(693/695)
[没]宝亀6(775).10.2.
奈良時代の学者,政治家。霊亀2 (716) 年入唐 (にっとう) 留学生,天平7 (735) 年帰朝。『唐礼』『大衍暦経』など多くの書籍,器物を将来した。同9年藤原氏の公卿が相次いで疫死したため,しだいに宮廷内に重きをなし,同 12年藤原広嗣の乱は,真備らの追放口実としている。天平勝宝2 (750) 年筑前守に左遷されたが,翌3年入唐使として渡唐,同6年帰朝した。天平宝字8 (764) 年恵美押勝 (→藤原仲麻呂 ) のがあり,従三位,参議,中衛大将となる。天平神護2 (766) 年右大臣。神護景雲3 (769) 年『刪定律令』を編纂,正二位。宝亀2 (771) 年致仕。

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朝日新聞掲載「キーワード」

吉備真備
岡山県の地方豪族出自を持つ官僚の家に生まれ、下道(しもつみち)朝臣真備と名乗る。717年に入唐(にっとう)。儒学や兵学など幅広く学び、735年に帰朝(きちょう)。政権内で活躍し、46年に「吉備朝臣」のを賜る。52年に遣唐副使として再入唐。帰国後は右大臣に出世し、81歳で死去
(2020-02-06 朝日新聞 朝刊 文化文芸)

出典:朝日新聞掲載「キーワード」

デジタル大辞泉

きび‐の‐まきび【吉備真備】
[695~775]奈良時代の政治家・学者。本姓は下道(しもつみち)氏。吉備の豪族の出身。唐に留学、諸学を学ぶ。帰朝後、橘諸兄(たちばなのもろえ)のもとで活躍。藤原仲麻呂に疎まれ筑前守に左遷。その後、再び渡唐。仲麻呂落後、中央に帰り右大臣となる。律令刪定(さんてい)などに尽力吉備大臣と称せられた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

吉備真備 きびの-まきび
695-775 奈良時代の学者,公卿(くぎょう)。
持統天皇9年生まれ。吉備の豪族下道圀勝(しもつみちの-くにかつ)の子。遣唐留学生として17年間儒学,兵学などをまなぶ。帰国後,僧玄昉(げんぼう)とともに,左大臣橘諸兄(たちばなの-もろえ)を補佐。吉備朝臣の氏姓をさずかるが,藤原仲麻呂に左遷される。のち仲麻呂の乱鎮定に功をたて,大納言をへて正二位,右大臣。吉備大臣と称される。「刪定(さんてい)律令」を編集。宝亀(ほうき)6年10月2日死去。81歳。
【格言など】力任(た)えずして強(し)うる者は廃し,心逮(およ)ばずして極むる者は必ず惛(くら)し(「乞骸骨表」)

出典:講談社
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世界大百科事典 第2版

きびのまきび【吉備真備】
695‐775(持統9‐宝亀6)
もと下道(しもつみち)真備。奈良時代の学者,政治家。備中国下道郡出身。父は右衛士少尉下道圀勝(くにかつ)。母は楊貴(八木)氏。圀勝の母の骨蔵器が岡山県矢掛町三成で発見されている。716年(霊亀2)22歳で唐への留学生となり翌年出発し,735年(天平7)に帰国。唐では儒学のほかに天文学や兵学,音楽も学んだことは,帰朝時に献上した《唐礼》130巻(経書),《大衍(えん)暦経》1巻,《大衍暦立成》12巻(以上天文暦書),測影鉄尺(日時計),銅律管,鉄如方響,写律管声12条(以上楽器),《楽書要録》10巻(音楽書),絃纏漆角,馬上飲水漆角弓,露面漆四節角弓各1張(いずれも騎馬民族の使う弭(ゆはず)が角製の弓),射甲箭20隻,平射箭10隻等によってわかる。

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大辞林 第三版

きびのまきび【吉備真備】
695~775 奈良時代の学者・廷臣。吉備地方の豪族の出身。大宰大弐。正二位右大臣。717年遣唐使に従って留学。735年帰国、「唐礼」などの書籍、兵器・器具を将来。751年遣唐副使として再入唐。帰国後、怡土いと城を築き、また藤原仲麻呂の乱の鎮定に貢献。吉備大臣。著「私教類聚」など。

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日本大百科全書(ニッポニカ)

吉備真備
きびのまきび
(695―775)
奈良時代の政治家、学者。「真吉備」とも書く。吉備の豪族下道朝臣(しもつみちのあそん)国勝の子。母は楊貴(やぎ)(八木)氏。716年(霊亀2)遣唐留学生となり、翌年入唐。経史、衆芸を学び、阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)とともに唐で名声をあげた。735年(天平7)帰朝、唐礼130巻、暦書、音楽書、武器、楽器、測量具などを献じた。大学助を経て東宮学士に任ぜられ、阿倍皇太子(後の孝謙(こうけん)天皇)に『礼記(らいき)』『漢書(かんじょ)』などを講義した。大宰少弐(だざいのしょうに)藤原広嗣(ひろつぐ)は、真備と僧玄(げんぼう)が重用されるのをねたみ、740年2人を討つ名目で挙兵、乱を起こしたが敗死した。746年吉備朝臣の姓(かばね)を賜った。751年(天平勝宝3)遣唐副使となり翌年入唐、754年帰国。大宰大弐に任ぜられ、在任中に怡土城(いとじょう)を建設した。764年(天平宝字8)藤原仲麻呂の反乱鎮定に功をたてた。参議、中衛大将(ちゅうえのだいしょう)、中納言(ちゅうなごん)、大納言を歴任、766年(天平神護2)右大臣に昇った。称徳(しょうとく)天皇崩御後、皇嗣(こうし)冊立に自説がいれられず、光仁(こうにん)天皇の即位後致仕した。宝亀(ほうき)6年10月2日没。[横田健一]

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精選版 日本国語大辞典

きび‐の‐まきび【吉備真備】
奈良時代の学者、政治家。養老元年(七一七)遣唐留学生として唐に渡り、天平七年(七三五)帰国し、朝廷に仕える。のち遣唐副使として再渡唐し、帰国後、大宰大弐、右大臣を歴任。儒学、天文、兵学に精通し、釈奠(せきてん)の儀式を定め、刪定(さんてい)付令の選定に参与するなど、文化、政治の面で貢献。著に「私教類聚」など。吉備大臣。持統天皇九~宝亀六年(六九五‐七七五

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旺文社日本史事典 三訂版

吉備真備
きびのまきび
693〜775
奈良時代の官人・学者
吉備地方(岡山県)の豪族下道氏の出身。のち吉備に改氏。717年僧玄昉 (げんぼう) らとともに留学生として入唐,735年帰国。儒学・天文・兵学などに通じ,玄昉とともに橘諸兄 (たちばなのもろえ) のもとで重用された。しかし藤原仲麻呂政権下で左遷された。752年遣唐副使として再度入唐し,帰国後,大宰大弐 (だざいのだいに) となり怡土城 (いとじよう) を築いた。仲麻呂の追討に活躍し,称徳天皇の信任を得て正二位右大臣にのぼった。天皇の死後,後継者の擁立に失敗し,光仁天皇の即位後辞官。書に『私教類聚 (しきようるいじゆう) 』。

出典:旺文社日本史事典 三訂版
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