Rakuten infoseek

辞書

北魏【ほくぎ】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

北魏
ほくぎ
Bei-wei; Pei-wei
中国,北朝 (→南北朝) の最初の王朝 (386~534) 。後魏または元ともいう。鮮卑の拓跋 (たくばつ) 部によって建てられた。淝水 (ひすい) の戦い前秦が大敗すると,配下の拓跋珪 (→道武帝) は自立して中国進出をはかった。珪は国号を魏と定め,皇始1 (396) 年に皇帝の位についた。のち太武帝華北統一を完成。孝文帝は都を洛陽に定め,漢化政策を推進。これによって北魏の文化は発展したが,北方民族本来の尚武の気風が失われ,のち政治的紛争が起り,東魏西魏に分裂。北魏王朝はその政治力,軍事力の中核をなす北方民族の漢化をめぐる問題,特に漢人豪族勢力の進展に対処してどのように一般農民を把握するか,また上級の漢民族,北方民族の家格の固定化をどのような形で政治に反映させるかなどの問題をかかえていた。孝文帝のとき施行された三長制均田制,姓族分定などはこれらの解決策である。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル大辞泉

ほく‐ぎ【北魏】

出典:小学館
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:田中牧郎、曽根脩
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

世界大百科事典 第2版

ほくぎ【北魏】

出典:株式会社平凡社
Copyright (c) Heibonsha Limited, Publishers, Tokyo. All rights reserved.

大辞林 第三版

ほくぎ【北魏】

出典:三省堂
(C) Sanseido Co.,Ltd. 編者:松村明 編 発行者:株式会社 三省堂 ※ 書籍版『大辞林第三版』の図表・付録は収録させておりません。 ※ それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

日本大百科全書(ニッポニカ)

北魏
ほくぎ
中国の王朝(386~534)。単に魏、元魏、後(こう)魏、拓跋(たくばつ)魏ともいう。鮮卑(せんぴ)族拓跋部は、初め中国東北地方大興安嶺(だいこうあんれい)北部に居住したことが最近の調査で明らかになったが、その後モンゴル高原に移動、3世紀中ごろには盛楽(内モンゴル、ホリンゴル付近)を本拠として部族連合を形成した。魏・晋(しん)政権とも交渉があり、しばしば南進を企てたが、内訌(ないこう)や諸部族の離反のため興廃を繰り返した。
 五胡(ごこ)十六国時代、前秦(ぜんしん)の瓦解(がかい)に乗じた拓跋珪(けい)は諸部族を統一して代国を建て、後燕(こうえん)を破って河北に進出したのを契機に、398年平城(山西省大同)に遷都し、大魏皇帝を称した(道武帝)。道武帝は諸部族を解散して族長から統率権を奪い、部族民を皇帝権に直結するという画期的な改革を行い、漢人官僚を重用して統一国家の整備に努めたが、急激な改革は国内に動揺をもたらし、帝はその子に弑(しい)された。政権の安定に意を用いた第2代明元帝を経て、第3代太武帝((とう))は漢人名族崔浩(さいこう)をブレーンに、四囲の征服に乗り出し、夏(か)、北燕、北涼(りょう)などの諸国を平定、華北全域を統一して五胡十六国時代に終止符を打った。この過程で被征服民を強制的に首都周辺やその他の要地に移住させ、その故地には鮮卑兵を主力とする中央軍を派遣して軍政支配を行った。太武帝は新天師道を唱える道士寇謙之(こうけんし)を信任して廃仏を断行し、漢人貴族を政界に招致するなど、漢文化尊重に傾いたが、彼も非業の最期を遂げた。その後しばらく宮廷内の混乱が続いたが、文明太后馮(ふう)氏(第4代文成帝の皇后)は事態を収拾して実権を握り、第6代孝文帝(宏)の後見役として均田制、租庸調制、三長制、俸禄(ほうろく)制などを断行し、農村の再建や財政の確立を図った。これらは以後唐代まで歴代国制の基本となった。
 太后が死んで孝文帝が親政すると、朝廷内における胡族の言語、風俗を禁じ、胡姓を漢姓に改め、漢人貴族制を胡人に及ぼすなど、一連の漢化政策を行った。拓跋氏もこのとき元氏と改めた。また都を洛陽(らくよう)に移し、南朝と対決する態勢を固めたが、その死後反動の気運が起こって政争を生み、鮮卑人近衛(このえ)軍士の暴動事件に続いて、524年北辺長城地帯の鎮民が蜂起(ほうき)した(六鎮(りくちん)の乱)。貴族制の導入によって立身を阻まれ、これまでの名誉ある軍士の地位がかえって賤民(せんみん)視されることに対する不満がその原因である。内乱は全国に広がり、そのなかから鎮民出身の軍閥、高歓と宇文泰が華北を東西に二分して争った。534年高歓のいただく孝武帝が洛陽を出奔して長安の宇文泰についたことから、北魏政権は東魏と西魏に分裂した。[谷川道雄]
『谷川道雄著『隋唐帝国形成史論』(1971・筑摩書房)』

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

精選版 日本国語大辞典

ほく‐ぎ【北魏】
中国、南北朝時代の北朝の一つ(三八六‐五三四)。鮮卑の拓跋珪(道武帝)が、内蒙古の盛楽に都して建国。四三九年第三代太武帝の時に華北を統一した。のち孝文帝は、均田制、三長制を実施し、四九四年に都を洛陽に移して徹底した漢化政策をとったが、以後国力は衰退に向かい、五三四年東魏・西魏に分裂して滅びた。後魏。魏。

出典:精選版 日本国語大辞典
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

北魏」の用語解説はコトバンクが提供しています。

北魏の関連情報

他サービスで検索

「北魏」のスポンサー検索

(C)The Asahi Shimbun Company /VOYAGE MARKETING, Inc. All rights reserved.
No reproduction or republication without written permission.