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北条義時【ほうじょうよしとき】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

北条義時
ほうじょうよしとき
[生]長寛1(1163)
[没]元仁1(1224).6.13. 鎌倉
鎌倉幕府の2代執権 (在職 1205~24) 。時政の子。幼名は江馬小四郎。伊豆国北条を本領とした。治承4 (1180) 年頼朝の挙兵以来,父とともに協力し,平氏征討,奥州藤原氏討伐に参戦。元久1 (1204) 年従五位下,相模守。同2年6月武蔵国二俣川で畠山重忠と戦ってこれを破った。同年閏7月父時政の失脚ののち,あとをうけて執権に就任。建保1 (13) 年侍所別当和田義盛と戦って勝ち,侍所別当となった。同4年従四位下,同5年右京権大夫兼陸奥守。承久1 (19) 年将軍源実朝横死ののち左大臣九条道家の子三寅 (のちの将軍藤原頼経) を鎌倉に迎えて幕府の主とし,みずから幕政の実権を握った。同3年後鳥羽上皇の倒幕計画に大軍を派遣して京都を占領させ (→承久の乱 ) ,上皇以下順徳天皇,土御門上皇ら関係者を処罰し,鎌倉幕府は全国的政権へと発展していった。

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デジタル大辞泉

ほうじょう‐よしとき〔ホウデウ‐〕【北条義時】
[1163~1224]鎌倉幕府第2代執権。在職1205~1224。時政の次男。通称、江馬小四郎。父時政の失脚後、執権となり、和田義盛を滅ぼして侍所別当を兼ねた。姉政子と協力して承久の乱を鎮圧し、幕府権力を安定させ、北条氏執権政治を固めた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

北条義時 ほうじょう-よしとき
1163-1224 鎌倉時代の武将。
長寛元年生まれ。北条時政の子。父とともに源頼朝の挙兵にしたがう。元久2年2代執権となり,建暦(けんりゃく)3年和田義盛をほろぼして侍所別当をかねた。3代将軍源実朝が暗殺された後は姉政子とともに幕政の実権をにぎり,承久(じょうきゅう)の乱で後鳥羽上皇を中心とした討幕軍をやぶり,北条執権政治の基礎を確立した。貞応(じょうおう)3年6月13日死去。62歳。幼名江間小四郎

出典:講談社
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世界大百科事典 第2版

ほうじょうよしとき【北条義時】
1163‐1224(長寛1‐元仁1)
鎌倉幕府第2代執権。時政の子。江間(小)四郎と称す。1180年(治承4)源頼朝が平氏打倒の兵を挙げると,父とともにこれを助け,相模の石橋山の戦などに加わった。84年(元暦1)から85年(文治1)源範頼(のりより)に従い平氏討伐のため西国に出陣,豊後国などで転戦した。99年(正治1)頼朝が没し,子の頼家があとをつぐと,頼家の外家である比企能員の勢力が台頭した。義時の父北条時政,姉北条政子らはこれを嫌い,頼家がみずから訴訟を裁くのを停め,13人の有力御家人の合議によることとした。

出典:株式会社平凡社
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大辞林 第三版

ほうじょうよしとき【北条義時】
1163~1224) 鎌倉幕府二代執権。時政の子。江馬小四郎と称す。1205年執権、13年和田義盛を滅ぼして侍所の別当を兼ねた。実朝横死後は姉政子とともに幕政の実権を握り、承久の乱に勝利して幕府政権を確実なものとした。

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日本大百科全書(ニッポニカ)

北条義時
ほうじょうよしとき
(1163―1224)
鎌倉幕府第2代執権。時政(ときまさ)の子。北条小四郎(こしろう)、江間(えま)四郎などと称した。相模守(さがみのかみ)、右京権大夫(うきょうごんのだいぶ)、陸奥(むつ)守を歴任。源頼朝(よりとも)の挙兵以来、父に従って活躍。頼家(よりいえ)のときも、元老重臣による合議制の一員として重要な政務にあずかった。1203年(建仁3)比企(ひき)氏が滅び、父時政が幕府の実権を握ると、翌04年(元久1)義時は相模守に任ぜられた。05年、実朝(さねとも)を廃そうと謀った父を、姉政子(まさこ)とともに幕府から追放した。幕府内における北条氏勢力の確立をねらう義時は、あなどりがたい勢力をもつ侍所別当(さむらいどころべっとう)和田義盛(よしもり)一族を13年(建保1)に滅ぼし、政所(まんどころ)と侍所の別当を兼ねて政務を独占した。ここに北条氏の幕府指導者としての地位がほぼ確立した。19年(承久1)には将軍実朝を暗殺して源家の血統を断ち、京都から九条道家(くじょうみちいえ)の子頼経(よりつね)を迎え、政子を表面にたて幕政を掌握した。後鳥羽(ごとば)上皇の討幕計画を察知した義時は、21年子泰時(やすとき)を大将として軍を上洛(じょうらく)させ京都を占領、上皇を隠岐(おき)に流し、泰時らを六波羅(ろくはら)に留め置いた(承久(じょうきゅう)の乱)。敵方からの没収所領3000余か所に、東国の御家人(ごけにん)武士を地頭(じとう)として送り、幕府の勢力範囲は一段と拡大した。事変後3年にして病を得、貞応(じょうおう)3年6月13日出家、同日急死した。[田辺久子]
『安田元久著『北条義時』(1961・吉川弘文館)』

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精選版 日本国語大辞典

ほうじょう‐よしとき【北条義時】
鎌倉幕府第二代執権。時政の子。通称江間小四郎。頼朝挙兵のときから父と共に各地で戦功を挙げ、頼朝の信任が厚かった。時政失脚後、執権となり、和田義盛を滅ぼして侍所別当を兼ねた。承久の乱で朝廷方を制圧し、後鳥羽・土御門・順徳の三上皇を配流して幕府権力を確立。長寛元~貞応三年(一一六三‐一二二四

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