Rakuten infoseek

辞書

前田玄以【まえだ げんい】

美術人名辞典

前田玄以
安土桃山時代の武将美濃生。名は宗向。初め孫十郎基勝と称した。は半夢斎・策勝軒等。僧侶であったが還俗して織田信忠に仕え、その後京都奉行となり、豊臣秀吉重用され丹波亀山城主となる。豊臣政権五奉行の一人として活躍典故に通じ、また千利休を学んだ。慶長7年(1602)歿、64才。

出典:(株)思文閣

デジタル大辞泉

まえだ‐げんい〔まへだ‐〕【前田玄以】
[1539~1602]安土桃山時代の武将。美濃の人。名は宗向。初め比叡山。のち、織田信忠信雄、次いで豊臣秀吉に仕え、丹波亀山5万石を封ぜられ、さらに五奉行の一人となった。

出典:小学館
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:田中牧郎、曽根脩
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル版 日本人名大辞典+Plus

前田玄以 まえだ-げんい
1539-1602 戦国-織豊時代の武将。
天文(てんぶん)8年生まれ。本能寺の変のおり,織田信忠(のぶただ)に三法師(織田秀信)を託され尾張(おわり)清洲にのがれた。京都奉行をつとめ,丹波亀山城(京都府)城主,豊臣家五奉行のひとりとなる。関ケ原戦いでは西軍にくみしたが,戦後徳川家康に所領を安堵(あんど)された。茶事を千利休にまなぶ。慶長7年5月7日死去。64歳。美濃(みの)(岐阜県)出身。号は半夢斎,民部卿法印,徳善院

出典:講談社
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

世界大百科事典 第2版

まえだげんい【前田玄以】
1539‐1602(天文8‐慶長7)
豊臣政権下の京都の所司代。民部卿法印,徳善院と号する。五奉行の一員。美濃の出身で比叡山で得度したという。織田信忠に仕え7000石を与えられていたが,1582年(天正10)の本能寺の変に際し三法師(織田秀信)の後事を託されて岐阜に逃れ,三法師を擁して清須に赴いた。そして織田信雄のもとで京都の奉行となったが,豊臣秀吉が政権を掌握してのちもそのまま京都の庶政を担当し,実に通暁する才能を深く信頼された。85年丹波亀山5万石を領し,95年には関白豊臣秀次の問責に当たり,その妻妾を亀山に預った。

出典:株式会社平凡社
Copyright (c) Heibonsha Limited, Publishers, Tokyo. All rights reserved.

大辞林 第三版

まえだげんい【前田玄以】
1539~1602 安土桃山時代の武将。名は宗向。美濃の人。初め比叡山の僧。のち織田信忠・豊臣秀吉に仕え、丹波亀山五万石を領した。豊臣氏五奉行の一人。

出典:三省堂
(C) Sanseido Co.,Ltd. 編者:松村明 編 発行者:株式会社 三省堂 ※ 書籍版『大辞林第三版』の図表・付録は収録させておりません。 ※ それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

前田玄以
まえだげんい
[生]天文8(1539).美濃
[没]慶長7(1602).5.7. 京都
安土桃山時代の武将。名は宗向。徳善院と称し,半夢斎,民部卿法印と号した。幼時比叡山に上って僧侶となり天台教学を修めたという。のち織田信長に仕え,その子信忠に従った。本能寺の変後は信忠の子三法師丸を助けた。豊臣秀吉に重用され,天正 13 (1585) 年丹波亀山5万石を領し,京都の奉行となった。秀吉の晩年の慶長3 (98) 年頃,五奉行の一人にあげられ,特に公家,寺社を管轄した。関ヶ原の戦いには西軍に属したが,この間東軍徳川方に通じたこともあり,戦後も本領は安堵された。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

日本大百科全書(ニッポニカ)

前田玄以
まえだげんい
(1539―1602)
安土(あづち)桃山時代の武将。名は宗向、号は徳善院、半夢斎(はんむさい)。通称を民部卿法印(みんぶきょうほういん)と称した。もと尾張(おわり)小松寺の住職とも伝えられるが明らかでない。織田信忠(のぶただ)に仕え、本能寺の変に際して信忠の子三法師(さんぼうし)を託され尾張に逃れた。この功により織田信雄(のぶかつ)から京都奉行(ぶぎょう)を命ぜられたという。また、一説には豊臣(とよとみ)秀吉の右筆(ゆうひつ)を勤めていたのを抜擢(ばってき)されたともいう。1585年(天正13)に丹波(たんば)亀山5万石を領した。98年(慶長3)秀吉が五奉行の制を定めるとその一人となり、おもに禁裡(きんり)御用地、門跡(もんぜき)領、寺社領の管理や洛中(らくちゅう)洛外の支配を担当した。関ヶ原の役(1600)には大坂城の留守居(るすい)を勤めたが、戦後、所領を安堵(あんど)された。[佐々悦久]

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

精選版 日本国語大辞典

まえだ‐げんい【前田玄以】
安土桃山時代の武将。美濃の人。名は宗向。号は徳善院、半夢斎。通称、民部卿法印。豊臣五奉行の一人。信長の子信忠に仕えたが、賤ケ岳の戦い以後秀吉が重用。京都奉行・寺社奉行として手腕をふるい丹波国亀山五万石に封ぜられた。関ケ原の戦いでは西軍にありながら家康に通じていた。天文八~慶長七年(一五三九‐一六〇二

出典:精選版 日本国語大辞典
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

旺文社日本史事典 三訂版

前田玄以
まえだげんい
1539〜1602
安土桃山時代の武将。豊臣家五奉行の一人
美濃(岐阜県)の人。もと比叡山の僧。織田信長に仕え,本能寺の変(1582)後織田信雄から京都の奉行に任ぜられた。のち豊臣秀吉に仕え,丹波(京都府)に5万石を領した。民政を担当,京都寺社を管轄した。関ケ原の戦い(1600)には西軍に属したが,東軍に内応して情報を伝え,戦後徳川家康から領地を安堵された。

出典:旺文社日本史事典 三訂版
執筆者一覧(50音順)
金澤利明 竹内秀一 藤野雅己 牧内利之 真中幹夫
 
Copyright Obunsha Co.,Ltd. All Rights Reserved.
それぞれの項目は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

前田玄以」の用語解説はコトバンクが提供しています。

前田玄以の関連情報

他サービスで検索

(C)The Asahi Shimbun Company /VOYAGE MARKETING, Inc. All rights reserved.
No reproduction or republication without written permission.