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内裏【だいり】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

内裏
だいり
おおうち」ともいう。天皇御所,転じて天皇をさす。平安京では,大内裏 (だいだいり) の中央北端やや東寄りにあり,東西 73丈 (約 240m) ,南北 100丈 (約 330m) の長方形の区画で,回廊で結ばれた 12の門があり,内部に 17殿,5舎が左右対称に配置された。南側正面の建礼門承明門を入ると,正殿の紫宸殿 (ししんでん) ,天皇の居所の仁寿殿 (じじゅうでん) を中心に春興 (しゅんこう,あるいはしゅんきょう) ,宜陽 (ぎよう) ,綾綺 (りょうき) ,温明 (うんめい) ,安福 (あんぷく) ,校書 (きょうしょ) ,清涼 (せいりょう) ,後涼 (こうりょう) の各殿,また後宮として,承香 (じょうきょう) ,常寧,貞観 (じょうがん) 3殿を中心に,麗景,宣耀 (せんよう) ,弘徽 (こき) ,登花 (とうか。登華とも書く) の各殿と,飛香 (ひぎょう。藤壺ともいう) ,凝華 (ぎょうか。凝花とも書く。梅壺) ,襲芳 (しほう,あるいはしゅうほう。雷鳴壺) ,昭陽 (梨壺) ,淑景 (しげい。桐壺) の5舎があった。たびたび火災にあって,安貞1 (1227) 年以後再建されず,里内裏 (さとだいり) だけになると,里内裏をも内裏と呼んだ。

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デジタル大辞泉

うち‐うら【内裏】
内輪(うちわ)。内緒。
「―の事情に通じない正雄の母は」〈小山内・大川端〉
着物などの裏につける布。

出典:小学館
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:田中牧郎、曽根脩
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だい‐り【内裏】
大内裏の中の天皇の居所を中心とする御殿平安京の場合、外郭は、東西約342メートル、南北約303メートル、内郭は、東西約173メートル、南北約218メートルあった。御所。皇居禁裏禁中大内。→十七殿
内裏雛(だいりびな)」の

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世界大百科事典 第2版

だいり【内裏】
古代都城の宮内の中心部分,天皇の居住場所をさしていう。〈おおうち(大内)〉〈うち〉ともいった。平安宮では,南北100丈(約303m),東西70丈(約212m)の区画をもち,北半分の後宮部分と南半分の天皇の常住区郭とに分かれ,両者の間は瓦垣でへだてられ,一応区別されていた(図)。後宮部分は常寧殿(じようねいでん)を中心に飛香舎(ひぎようしや),貞観殿(じようがんでん)などの殿舎からなり,,女御などの居住区域となっていた。

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大辞林 第三版

うちうら【内裏】
内輪うちわ。内証。 -の事情に通じない正雄の母は/大川端
着物の裏につける布。

出典:三省堂
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だいり【内裏】
天皇の住居としての宮殿。大内裏の中にある。皇居。禁裏。禁中。御所。
「内裏雛」の略。

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日本大百科全書(ニッポニカ)

内裏
だいり
宮城(大内裏)の中で天皇の住む一画。皇居。難波(なにわ)宮、藤原宮、長岡宮、平城宮などは発掘調査されているが、平安宮はほとんど未調査である。しかし各種の古図や江戸時代の有職故実(ゆうそくこじつ)家裏松光世(うらまつみつよ)(固禅(こぜん))が残した詳細な考証書『大内裏図考証(だいだいりずこうしょう)』などによって殿舎の配置・規模などはある程度わかる。内裏は平城宮までは朝堂院(大内裏の正庁)の真北にあり、長岡宮、平安宮では朝堂院のやや東に移された。これは公的な朝堂院と、天皇の私的な居所を分離したものであろう。しかし、律令(りつりょう)体制の変質によって、この平面の変化がかえって内裏を政治の中心的な場とし、朝堂院は儀式の場としての性格を強めることになった。
 平城宮の内裏として確認されているのは、宮城東寄りの壬生(みぶ)門――朝堂院の北に位置し、第二次内裏といわれた所である。築地(ついじ)回廊に囲まれた、1辺約180メートルの正方形の地域で、南側には東西9間、南北5間の正殿(平安宮の紫宸(ししん)殿にあたる)などを回廊で囲んだ一画があり、公の宴などが催されたりした場所である。北側は正殿より少し小さめの殿舎の周囲に建物が配され、天皇が起居する私的な区画であった。正殿などの殿舎は檜皮葺(ひわだぶ)きで板敷きのものが中心となっていた。内郭(築地回廊が囲む区域)の外側をさらに築地で囲み、これを外郭という。広い意味の内裏はこの全体を含み、内郭と外郭の間に、天皇の日常生活と関係の深い官衙(かんが)(官庁)があった。
 長岡宮(京都府向日(むこう)市)では、朝堂院の東方に内裏が確認されている。平城宮と同様外郭が存在しており、内郭は1辺約160メートルの正方形で築地回廊に囲まれ、その南中央に正殿が位置していた。正殿などの柱は抜き取られて、平安京の造営に使用されたらしい。
 平安宮の内裏は大内裏の中央東寄り、朝堂院の北東にあった。築地の外郭は東西113丈(約342メートル)、南北100丈(約303メートル)ともっとも大きい。東部に築地回廊で囲まれた内郭、その北に蘭林坊(らんりんぼう)、桂芳(けいほう)坊、華芳(かほう)坊、西に中和院(ちゅうかいん)、内膳司(ないぜんし)、采女町(うねめまち)があった。内郭は東西57丈(約173メートル)、南北72丈(約218メートル)で、南側中央に位置する紫宸殿と、その南にある4殿が公的な部分であり、北側に清涼(せいりょう)殿など天皇の私的な殿舎があった。その北が皇后・女御(にょうご)などの居所がある後宮で、建物は檜皮葺き、素木(しらき)(白木=木地のままの木材)造、板敷きであった。このように南北に公私を分け、左右対称に殿舎を配する形態は平城宮でもみられたが、各建物を廊で結んだのが平安内裏の特色である。
 794年(延暦13)の平安遷都でつくられた内裏は、約160年後の960年(天徳4)に全焼、ただちに木工寮(もくりょう)、修理職(しゅりしき)と27か国に造営を分担させ、翌年完成した。その後、火災の頻発により、一条殿などの里内裏(さとだいり)が現れ、平安後期になると天皇は日常は里内裏に住み、儀式のときに内裏に帰るようになり、初めから里内裏として造営される邸宅もあった。
 鎌倉時代も同様で、本来の内裏は1227年(安貞1)焼亡したのちは再建されていない。建武(けんむ)の新政で大内裏再建が計画されたものの中止され、南北朝以後は鎌倉末期につくられた土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)が、内裏として固定する。ここは規模も小さく、構成なども平安内裏とはかなり異なっていた。近世に入って規模が拡大され、江戸後期の1788年(天明8)の火災後、紫宸殿、清涼殿などが平安内裏を復原して造営され、1854年(安政1)に焼亡したがすぐ再建され、1869年(明治2)の東京遷都まで皇居であった。現在の京都御所がこれである。[吉田早苗]

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精選版 日本国語大辞典

うち‐うら【内裏】
〘名〙
※おぼろ夜(1899)〈斎藤緑雨〉「うっかり呑めぬ勤(つとめ)の内裏(ウチウラ)
② 着物や褥(しとね)などの裏に付ける布。
※満佐須計装束抄(1184)一「おもてただきぬ白くはりてやうしてこきうちうらをつく」

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