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保元の乱【ほうげんのらん】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

保元の乱
ほうげんのらん
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デジタル大辞泉

ほうげん‐の‐らん【保元の乱】
保元元年(1156)京都に起こった内乱。皇室では皇位継承に関して不満をもつ崇徳上皇後白河天皇とが、摂関家では藤原頼長忠通とが対立し、崇徳・頼長側は源為義平忠正の軍を招き、後白河・忠通側は源義朝平清盛の軍を招いて交戦したが、崇徳側が敗れ、上皇讃岐(さぬき)に流された。貴族の無力化と武士の実力を示した事件で、武士の政界進出を促した。

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世界大百科事典 第2版

ほうげんのらん【保元の乱】
1156年(保元1)に起こった京都の争乱。〈ほげんのらん〉ともいう。皇室・摂関家内の勢力争いに源平2氏の武力が介入して勃発した。白河院政開始(1086)後,朝廷には〈治天の君(ちてんのきみ)〉=院と天皇と二つの権力が競合併存することとなり,それにともなって勢力争いは複雑かつ熾烈化していった。白河院没(1129)後はその子鳥羽上皇が院政をとったが,鳥羽院は1141年(永治1)崇徳(すとく)天皇(鳥羽院の子。

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ほげんのらん【保元の乱】

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大辞林 第三版

ほうげんのらん【保元の乱】
1156年(保元1)京都に勃発した内乱。皇位継承に関する崇徳上皇と後白河天皇との対立に、摂関家の藤原頼長と忠通との家督争いが結びつき、上皇・頼長側は源為義・平忠正、後白河・忠通側は源義朝・平清盛らの武士団を招じ入れて戦い、上皇方が敗北した。上皇は讃岐に流され、頼長は戦傷死した。この乱は、のちの武家政権成立への端緒をなした。

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精選版 日本国語大辞典

ほうげん【保元】 の 乱(らん)
保元元年(一一五六)京都に起こった内乱。皇室内部では皇位継承に関して不満を持つ崇徳上皇と後白河天皇が、摂関家では藤原頼長と忠通とが激しく対立し、崇徳・頼長側は源為義・平忠正らの武士団を招き、後白河・忠通側は源義朝・平清盛らの武士団を招いて交戦。崇徳側が敗れて、上皇は讚岐国(香川県)に配流、頼長は戦傷死、為義・忠正は殺された。武士の実力が発揮され、武士の中央政治進出の契機となった。

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