辞書・百科辞典をはじめとする多数の辞書からすばやく簡単に| サービス一覧ヘルプ

会沢正志斎【あいざわ せいしさい】

美術人名辞典

会沢正志斎
幕末の水戸藩儒。名は安、通称は恒蔵、字は伯民、別号に欣賞斎・憩斎等。藤田幽谷に師事。彰考館に学ぶ。天保9年(1838)藤田東湖らの協力を得て「弘道館記」を作る。文久3年(1863)歿、81才。

出典:(株)思文閣

デジタル大辞泉

あいざわ‐せいしさい〔あひざは‐〕【会沢正志斎】
[1782~1863]江戸後期の思想家。水戸藩士。名は安(やすし)。藩主徳川斉昭(なりあき)を擁立し、藩政改革尊王攘夷(そんのうじょうい)運動を推進、水戸学の発展に努めた。主著「新論」。

出典:小学館
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:曽根脩
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル版 日本人名大辞典+Plus

会沢正志斎 あいざわ-せいしさい
1782-1863 江戸時代後期の儒者。
天明2年5月25日生まれ。常陸(ひたち)水戸藩士。藤田幽谷にまなび,「大日本史」編修に従事。徳川斉昭(なりあき)を藩主に擁立して藩政改革につとめ,天保(てんぽう)11年藩校弘道館初代教授頭取となった。著作「新論」は尊攘(そんじょう)運動に影響をあたえた。文久3年7月14日死去。82歳。名は安(やすし)。字(あざな)は伯民。通称は恒蔵。別号に欣賞斎,憩斎。
【格言など】天地の間,各各(おのおの)その職分ありて閑人(むだびと)なきこと天道なり(「人臣去就説」)

出典:講談社
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

世界大百科事典 第2版

あいざわせいしさい【会沢正志斎】
1782‐1863(天明2‐文久3)
後期水戸学の大成者。名は安,字は伯民,正志斎は号。水戸藩下級士族の子。藤田幽谷に師事し,彰考館に入り《大日本史》編纂に携わるかたわら,斉昭ら藩主の子の侍読を務める。1825年(文政8)主著《新論》を著し,尊王・攘夷を鼓吹する。29年8代藩主斉修が死に継嗣問題が起こると,藤田東湖らとともに斉修の弟斉昭の擁立に奔走する。斉昭襲封後は藩政改革派の中心となり,郡奉行,御用調役,彰考館総裁を歴任,また藩校弘道館の創設に尽力し初代の総教(教授頭取)となる。

出典:株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

大辞林 第三版

あいざわせいしさい【会沢正志斎】
1782~1863) 江戸後期の儒学者。水戸藩士。名は安やすし。藤田幽谷に学びその思想を祖述・発展させた。彰考館総裁。藤田東湖とともに藩の尊攘運動を指導。著「新論」「迪彝篇」など。

出典:三省堂
(C) Sanseido Co.,Ltd. 編者:松村明 編 発行者:株式会社 三省堂 ※ 書籍版『大辞林第三版』の図表・付録は収録させておりません。 ※ それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

会沢正志斎
あいざわせいしさい
会沢安」のページをご覧ください

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

日本大百科全書(ニッポニカ)

会沢正志斎
あいざわせいしさい
(1782―1863)
江戸末期の儒学者で水戸学の代表的思想家。名は安(やすし)、字(あざな)は伯民(はくみん)、通称恒蔵(つねぞう)、号は正志斎、憩斎(けいさい)。天明(てんめい)2年5月25日常陸(ひたち)国久慈(くじ)郡諸沢(もろざわ)村(茨城県常陸大宮市諸沢)に生まれる。10歳で藤田幽谷(ふじたゆうこく)に学び、彰考館(しょうこうかん)写字生となる。1807年(文化4)、当時5歳であった後の藩主徳川斉昭(とくがわなりあき)の侍読(じどく)を務め、1824年(文政7)イギリス人常陸大津浜上陸事件の尋問にあたり、翌1825年尊王攘夷(そんのうじょうい)運動の聖典といわれる『新論』を著述した。幽谷の没後、彰考館総裁代理となる。藩主斉脩(なりのぶ)(1797―1829)の相続問題が起こると斉昭擁立に奔走。1829年斉昭就任後、郡奉行(こおりぶぎょう)、通事(つうじ)、調役(しらべやく)、彰考館総裁を歴任、1840年(天保11)弘道館教授頭取(とうどり)となる。ペリー来航に際し和議の非を説いたが、1858年(安政5)修好通商条約調印後、井伊大老の非をつく戊午(ぼご)の密勅が水戸藩に下るや、幕命を体して勅書の伝達を中止し、これを幕府に返納すべきことを主張した。桜田・坂下両門外の変に際しては御三家家臣の身分秩序を超える反逆の行為と論断、ついで1862年(文久2)一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)に「時務策」を呈して開国のやむをえないことを献言し、尊攘派と鋭く対立、藩内激派に対する鎮派の中心人物とみなされるに至った。この年馬廻頭(うままわりかしら)上座となり、翌文久(ぶんきゅう)3年7月14日82歳で没した。[山口宗之]
『『水戸学大系 会沢正志斎集』(1941・水戸学大系刊行会) ▽西村文則著『会沢伯民』(1938・大都書房) ▽高須芳次郎著『会沢正志斎』(1942・厚生閣) ▽瀬谷義彦著『会沢正志斎』(1942・文教書院) ▽山口宗之著『幕末政治思想史研究』(1968・隣人社/改訂増補・1982・ぺりかん社)』

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

会沢正志斎」の用語解説はコトバンクが提供しています。

会沢正志斎の関連情報

他サービスで検索

「会沢正志斎」のスポンサー検索

(C)The Asahi Shimbun Company /VOYAGE GROUP, Inc. All rights reserved.
No reproduction or republication without written permission.