Rakuten infoseek

辞書

伊藤博文【いとう ひろぶみ】

美術人名辞典

伊藤博文
政治家。山口県生。本姓は林、幼名は利助、のち俊輔、博文、号に春畝・滄浪閣主人。初め松下村塾に学び、木戸孝允に従い尊王攘夷運動に参加。最初の内閣総理大臣枢密院議長・韓国統監等を歴任詩文及び書を能くした。明治42年(1909)ハルビン客死、69才。

出典:(株)思文閣

デジタル大辞泉

いとう‐ひろぶみ【伊藤博文】
[1841~1909]政治家。山口の生まれ。吉田松陰に学び、倒幕運動に参加。のち明治憲法立案に当たる。明治18年(1885)内閣制度を創設、初代総理大臣となった。枢密院貴族院の初代議長を歴任。のち、立憲政友会を組織し、総裁に就任。日露戦争後、初代韓国統監となったが、ハルビンで韓国の独立運動家安重根に暗殺された。

出典:小学館
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:田中牧郎、曽根脩
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル版 日本人名大辞典+Plus

伊藤博文 いとう-ひろぶみ
1841-1909 幕末-明治時代の政治家。
天保(てんぽう)12年9月2日生まれ。周防(すおう)(山口県)の農民の子で,松下村塾にまなぶ。イギリス公使館焼き打ちに参加するなど尊攘(そんじょう)運動にしたがうが,文久3年渡英。帰国後は開国をとなえ倒幕運動に活躍。明治4年岩倉遣欧使節団の全権副使となる。大久保利通の没後,内務卿となり,14年の政変で政府の実権をにぎる。内閣制度を創設して,18年初代の首相(組閣4回)となり,枢密院の設置,大日本帝国憲法の制定など,天皇制近代国家の枠組みをつくった。条約改正を実現し,日清(にっしん)戦争を遂行。33年政友会を創立して総裁。38年日露戦争後,統監府の初代統監となり朝鮮併合をすすめた。明治42年10月26日ハルビン駅で安重根(アン-ジユングン)に暗殺された。公爵。69歳。本姓は林。前名は俊輔。号は春畝(しゅんぽ)など。

出典:講談社
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

防府市歴史用語集

伊藤博文
松下村塾[しょうかそんじゅく]で学び、井上馨[いのうえかおる]らとともにひそかにイギリスへ留学しました。1864年(元治元年)四国連合艦隊砲撃事件[しこくれんごうかんたいほうげきじけん]をうけて帰国、富海から上陸して藩主のもとへ向かいました。この事件における外国との講和会議では通訳を務めています。のちに、日本で最初の総理大臣となりました。

出典:ほうふWeb歴史館
Copyright 2002,Hofu Virtual Site Museum,Japan
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

世界大百科事典 第2版

いとうひろぶみ【伊藤博文】
1841‐1909(天保12‐明治42)
明治時代の代表的な藩閥政治家。長州藩の貧農の家に生まれ,のち父が伊藤家を継いで士分となる。吉田松陰の松下村塾に学び,高杉晋作らと尊王攘夷運動に挺身し,1863年(文久3)イギリスに留学したが,4国連合艦隊の長州藩攻撃計画を知って帰国,藩論の転換をはかったが失敗した。幕府の第1次長州征伐に対する藩首脳の処置に反対して高杉らと挙兵,藩内戦に勝利して藩の主導権を握り,幕府との武力対決に備え諸改革を進める中でとくに武器の輸入や他藩との交渉の任に当たった。

出典:株式会社平凡社
Copyright (c) Heibonsha Limited, Publishers, Tokyo. All rights reserved.

大辞林 第三版

いとうひろぶみ【伊藤博文】
1841~1909) 政治家。長州の人。初名は俊輔。松下村塾に学び、討幕運動に活躍。明治政府にあって、帝国憲法の制定、天皇制の確立に尽力。初代首相・枢密院議長・立憲政友会総裁などを歴任。組閣四度に及び、その間日清戦争を遂行。1905年(明治38)初代韓国統監。ハルビンで安重根アンジユングンに暗殺された。

出典:三省堂
(C) Sanseido Co.,Ltd. 編者:松村明 編 発行者:株式会社 三省堂 ※ 書籍版『大辞林第三版』の図表・付録は収録させておりません。 ※ それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

伊藤博文
いとうひろぶみ
[生]天保12 (1841).9.2. 周防
[没]1909.10.26. 中国,ハルビン
明治の政治家。内閣総理大臣(首相。在任 1885~88,1892~96,1898.1.~6.,1900~01)。幼名利助,のちに俊輔。明治維新後博文に改めた。農民の子として生まれたが,父が長州藩の中間伊藤直右衛門の養子となったため下級武士の身分を得た。吉田松陰に学んで尊王攘夷論者(→尊王攘夷運動)となるが,文久3(1863)年密航してイギリスに渡り,開国論者となって帰国し倒幕運動に参加。慶応3(1867)年12月,王政復古の大号令が発せられて幕府が廃止されると,新政府のもとで改革に取り組んだ。1885年近代的内閣制度樹立を進め(→内閣),初代内閣総理大臣に就任。1886年憲法草案起草に着手,1888年4月に完成した。同月,内閣総理大臣を辞任し,枢密院議長となり,1889年に大日本帝国憲法発布。木戸孝允大久保利通とともに新政府の重職を占めた。木戸,大久保,西郷隆盛らの亡きあと黒田清隆松方正義山県有朋とともに明治政府の中心的存在となった。1905年,日露戦争後に初代韓国統監に任命されると日韓併合を工作し,1909年に統監を辞任して枢密院議長に転じた。同 1909年極東問題についてロシアと会談するため中国東北部のハルビンに赴き,ハルビン駅頭で日韓併合に反対する韓国青年安重根に暗殺された(→ハルビン事件)。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

日本大百科全書(ニッポニカ)

伊藤博文
いとうひろぶみ
(1841―1909)
明治時代の代表的な藩閥政治家。公爵。長州藩出身。天保(てんぽう)12年9月2日、周防(すおう)国(山口県)熊毛(くまげ)郡の貧農の家に生まれる。幼名利助(りすけ)、のち俊輔(しゅんすけ)。春畝(しゅんぼ)と号した。父十蔵が家族ぐるみで伊藤家を継いだため、士分の最末端に籍を置くことになった。吉田松陰(よしだしょういん)の松下村塾(しょうかそんじゅく)に学び、のち高杉晋作(たかすぎしんさく)らと尊王攘夷(じょうい)運動に挺身(ていしん)、1862年(文久2)のイギリス公使館焼打ちにも参加した。翌年藩命によりイギリスに留学、1864年(元治1)ロンドンで米英仏蘭(らん)四国連合艦隊の長州藩攻撃の計画を知って急ぎ帰国、藩主らに開国への転換を説いたが、いれられなかった。同年幕府による第一次長州征伐に対する藩首脳らの処置に憤激して高杉らと挙兵、この藩内戦に勝利し、以後藩主流派として藩政改革に参画、おもに対外交渉の任にあたった。
 1868年(明治1)明治政府の外国事務掛として出仕、参与兼外国事務局判事、兵庫県知事を歴任、翌年陸奥宗光(むつむねみつ)らと当面する政治改革についての建白を提出、早くも開明派官僚として頭角を現した。大蔵少輔(しょうゆう)兼民部少輔となり貨幣制度の改革を担当、1870年には財政幣制調査のためアメリカに出張、翌年の金本位制の採用、新貨条例の公布に導いた。1871年岩倉使節団の副使として米欧に出張、その間に大久保利通(おおくぼとしみち)の信任を得ることになった。1873年帰国後の政局で大問題となった征韓論争には、大久保、木戸孝允(きどたかよし)を支持して征韓派を退け、その直後の政府改造で参議兼工部卿(こうぶきょう)となった。1875年には、その前年に台湾出兵に反対して下野していた木戸の政府復帰を図って大阪会議を斡旋(あっせん)、漸次立憲制への移行方針と元老院、大審院などの創設を決定した。
 士族反乱や西南戦争の処理を終わって、新しい体制への移行を試みようとしていた大久保が1878年に暗殺されると、その後を継いで内務卿となり、明治政府の中心人物となった。琉球(りゅうきゅう)処分、侍補制度の廃止、教育令の制定などを推進した。他方、元老院起草の憲法案が政府首脳を満足させず、諸参議の憲法意見を徴することになり、1881年大隈重信(おおくましげのぶ)の急進的な憲法意見が提出されると伊藤はこれと対立、同年のいわゆる明治十四年の政変によって大隈ら開明派官僚をいっせいに追放するとともに、1890年の議会開設を約束した政変劇の主役となった。翌1882年渡欧し、ドイツ、オーストリアで憲法調査にあたり、帰国後の1884年宮中に制度取調局を創設してその長官となり、立憲制への移行に伴う諸制度の整備に着手した。同年華族令を制定して新しい華族を皇室の藩屏(はんぺい)としたのをはじめ、1885年には太政官(だじょうかん)にかえて内閣制度を創設し、初代首相に就任した。また翌年から井上毅(いのうえこわし)、伊東巳代治(いとうみよじ)、金子堅太郎(かねこけんたろう)らと憲法、皇室典範のほか貴族院令、衆議院議員選挙法などの草案の起草に着手し、1888年枢密院が新設されるとその議長として憲法草案などの審議にあたった。
 1889年(明治22)大日本帝国憲法の発布直後に、「超然主義」の立場を鮮明にし、政党の動向を顧慮することなく議会運営にあたることを宣言した。1890年の議会開設に際しては初代の貴族院議長となり、以後山県有朋(やまがたありとも)、松方正義(まつかたまさよし)両内閣の議会運営に助言を与え、民党との対立が激化すると、1892年自ら政党結成に着手しようとするが、果たせなかった。松方内閣の倒壊後は、元勲を網羅して第二次内閣を組織し、条約改正を実現し、日清(にっしん)戦争の遂行にあたった。1898年第三次内閣を担当するに際しては自由・進歩両党との提携に失敗し、戦後経営の財源として議会に地租増徴案を提出して政党側の激しい反対にあうと、政府党結成に着手するが、政府部内からの反対もあって挫折(ざせつ)、挂冠(けいかん)(辞職)した。その後、朝鮮、中国の視察旅行に出発、中国情勢の緊迫化を痛感して帰国。そうした情勢に対応できる国内体制の再編強化を企図して政党改造を構想、1900年(明治33)立憲政友会を結成し、その総裁となる。同年政友会を背景に第四次内閣を組閣したが、翌1901年には貴族院の根強い反発にあい、さらに財政方針をめぐる閣内不統一のため総辞職した。この年日英同盟論がおこると、日露協商の可能性に期待して訪露するが、具体的な成果は得られず、結果的には1902年の日英同盟締結を促進する役割を果たした。帰国後は、野党の立場を貫こうとする政友会の統率に苦悩し、1903年には総裁を辞任して枢密院議長に就任し、元老身分に復帰した。
 以後元老として内外の重要政策の決定に関与し、とくに日露戦争の遂行と戦後における朝鮮問題、満州問題の処理には重要な役割を果たした。1905年韓国統監府が設置されると、初代統監に就任、韓国の外交権を掌握し、逐次内政の諸権限を収奪して植民地化を進め、韓国併合への地ならし役を務めた。1909年(明治42)統監を辞任し、同年10月、日露関係を調整するためロシアの蔵相ココーフツォフと会談するため渡満、26日ハルビンに到着した際、駅頭で韓国の独立運動家安重根(あんじゅうこん)に暗殺された。
 幕末の長州藩で尊王攘夷運動に活躍し、イギリスへの留学が欧米への開眼となり、とくに明治維新以後は国際通として欧米列強の動向を慎重に顧慮しながら内外政策を推進した。他方、対朝鮮・中国政策の面では強硬姿勢をとり、日清戦争の講和交渉や、日露戦争中から戦後における対韓政策などでは、日本の利益実現のため強圧的交渉を推進している。国内政策の面では、明治初年より開明派と目され、諸制度の近代化を積極的に推進するとともに、立憲制への転換を主導した。議会開設にあたっては、当初「超然主義」を宣言して政党無視の立場をとろうとしたが、初期議会の経験から政党の必要を痛感すると、自ら政党組織に乗り出すなど、状況の変化に対して柔軟な政治姿勢を示した。こうした政治路線は、山県有朋らの保守派官僚層との対立を表面化させることになり、彼らは外交面で伊藤の立場を軟弱外交として攻撃し、またその政党結成に対しても拒否的反応を示した。しかし、明治天皇の信任は厚く、明治期を通じて元老中第一の実力者として内外政策に大きな影響力を行使した。[宇野俊一]
『春畝公追頌会編『伊藤博文伝』全3冊(1940・統正社) ▽岡義武著『近代日本の政治家』(1960・文芸春秋新社) ▽遠山茂樹編『近代日本の政治家』(1964・講談社) ▽伊藤博文関係文書研究会編『伊藤博文関係文書』1~9(1973~1981・塙書房) ▽戸川猪佐武著『明治・大正の宰相1 伊藤博文と維新の元勲たち』(1983・講談社) ▽御厨貴監修『歴代総理大臣伝記叢書1 伊藤博文』(2005・ゆまに書房) ▽豊田穣著『初代総理 伊藤博文』上下(講談社文庫) ▽羽生道英著『伊藤博文――近代国家を創り上げた宰相』(PHP文庫)』

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

精選版 日本国語大辞典

いとう‐ひろぶみ【伊藤博文】
政治家。幼名利助、のち俊輔。長州藩出身。松下村塾に学ぶ。討幕運動で活躍。明治一四年(一八八一)政変のあと、政府の最高指導者となる。明治憲法の制定にあたり枢密院を設置。内閣制度をしいて初代首相となる。四回組閣し、その間、日清戦争を遂行する。貴族院議長、枢密院議長、立憲政友会総裁、初代韓国統監を歴任。ハルビンで韓国人安重根に暗殺された。天保一二~明治四二年(一八四一‐一九〇九

出典:精選版 日本国語大辞典
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

伊藤博文」の用語解説はコトバンクが提供しています。

伊藤博文の関連情報

他サービスで検索

「伊藤博文」のスポンサー検索

(C)The Asahi Shimbun Company /VOYAGE MARKETING, Inc. All rights reserved.
No reproduction or republication without written permission.