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井上馨【いのうえ かおる】

美術人名辞典

井上馨
政治家・公爵山口県生。号は世外三猿、名は聞多。蘭学砲術を修め、伊藤博文らとイギリスに留学、帰国後木戸孝允らと薩長連合に奔走する。維新後は新政府参与となり外交財政の衝に当り、のち伊藤内閣の外相内相蔵相を務めた。大正4年(1915)歿、81才。

出典:(株)思文閣

朝日新聞掲載「キーワード」

井上馨
周防国湯田村(現在の山口市)出身。幕末の1863年「長州ファイブ」の一人として藩命で英国に密航留学した。明治維新後は、外務卿、外相、蔵相などを歴任不平等条約改正のために風俗生活様式を西洋化する欧化政策を進め、近代的な銀行制度導入や三井物産などの貿易商社創設に深く関わり日本の近代資本主義の基礎造りに尽力した。
(2013-06-11 朝日新聞 朝刊 山口 1地方)

出典:朝日新聞掲載「キーワード」

デジタル大辞泉

いのうえ‐かおる〔ゐのうへかをる〕【井上馨】
[1836~1915]政治家。山口の生まれ。通称、聞多(もんた)。幕末の尊王攘夷運動に参加。第一次伊藤内閣の外務大臣として欧化政策をとったが、世論の反対にあい、条約改正交渉に失敗。農商務相・内務相・蔵相を歴任。のち元老として国政関与

出典:小学館
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

井上馨 いのうえ-かおる
1836*-1915 幕末-大正時代の武士,政治家。
天保(てんぽう)6年11月28日生まれ。長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩士。文久3年伊藤博文らとイギリスに渡航して攘夷(じょうい)から開国倒幕派に転じる。新政府の大蔵大輔(たいふ)となるが,実業界にうつり先収会社(のちの三井物産)を設立。明治12年外務卿,18年第1次伊藤内閣の外相となり,不平等条約改正のため鹿鳴館を中心に欧化政策をすすめるが,失敗。のち農商務相,内相,蔵相などをへて元老。侯爵。大正4年9月1日死去。81歳。周防(すおう)(山口県)出身。一時,志道聞多(しじ-もんた)を名のる。号は世外。
【格言など】政府をしっかりしたものにするには,皆掛りでやらねばならぬ,君もぜひ政府へ入れ(三井物産の益田孝に対して)

出典:講談社
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防府市歴史用語集

井上馨
 萩藩[はぎはん]出身の政治家で、伊藤博文[いとうひろぶみ]たちとイギリスに留学していましたが、1864年、下関砲撃事件[しものせきほうげきじけん]を聞いて帰国し、通訳として講和に参加しました。 明治維新の後は、外交や財政の大臣となっています。

出典:ほうふWeb歴史館
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世界大百科事典 第2版

いのうえかおる【井上馨】
1835‐1915(天保6‐大正4)
幕末・維新から明治・大正初年にかけての政治家。財界とくに三井財閥との縁が深い。長州藩士の井上家は田地1町,畑4~5反をもつ100石の地侍であったが,彼は幕末期一時志道(しじ)家の養子となり,のち井上家に復帰。聞多の名は1860年(万延1),藩主毛利敬親(たかちか)の小姓役のとき藩主からもらったものである。号は世外。明倫館に学び,また蘭学,英学,砲術などを修業し,高杉晋作らと尊攘運動に参加した。63年(文久3),藩が馬関(下関)で攘夷実行を行うさなか,藩命で伊藤博文ら4名とともにロンドンへ密航したが,翌64年(元治1),四国連合艦隊の下関攻撃計画を知り,急きょ伊藤と帰国,幕府の長州征伐と連合艦隊攻撃のはざまにあった長州藩のために講和を周旋した。

出典:株式会社平凡社
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大辞林 第三版

いのうえかおる【井上馨】
1835~1915) 政治家。長州の人。通称を聞多。討幕運動に活躍。第一次伊藤内閣の外相として条約改正に尽力、また極端な欧化政策を推進。のち農相・内相・蔵相などを歴任。元老として、政財界に重きをなした。

出典:三省堂
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

井上馨
いのうえかおる
[生]天保6(1836).11.28. 長州
[没]1915.9.1. 興津
政治家。吉田松陰の松下村塾に学び,討幕運動に参加。明治政府では財政,外交の両面で業績を上げ,元老の一人として政界に大きな力をもった。しかし,その性格から政治指導の立場にはついに立つことなく政財界の斡旋者としての役割に終始した。それゆえに明治の元老のなかでは財界の利害を代弁することが最も多く,「三井の番頭」という批判をこうむらねばならなかった。侯爵。

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日本大百科全書(ニッポニカ)

井上馨
いのうえかおる
(1835―1915)
幕末の志士、明治時代の政治家。号は世外。天保(てんぽう)6年11月28日長州藩士の子として生まれる。幼名を勇吉と称し、のち同藩士志道(しじ)家の嗣子(しし)となり名も聞多(もんた)と改名、その後ふたたび生家に戻った。幕末期には木戸孝允(きどたかよし)、高杉晋作(たかすぎしんさく)らとともに長州藩倒幕派の中心人物として活躍、維新政権成立後には財政・外交面を中心に政府の主要官職を歴任し、大正4年9月1日80歳で没するまで、伊藤博文(いとうひろぶみ)、山県有朋(やまがたありとも)とともに明治の三元老の一人として政界に君臨した。
 1862年(文久2)高杉らと品川のイギリス公使館を襲撃したが、翌年イギリスへ洋行し、これを契機に尊王攘夷(そんのうじょうい)から尊王倒幕へと思想を転回させた。1864年8月、四か国連合艦隊の下関砲撃を知って急遽(きゅうきょ)帰国し、開国の必要を説くとともに、薩長(さっちょう)連合に尽力し倒幕運動を推進した。維新後、参与(さんよ)兼外国事務掛として政府入りし、1869年(明治2)通商司知事、1871年には大蔵大輔(おおくらたいふ)に就任したが、岩倉使節団の渡欧中に財政問題から辞職し、貿易会社先収(せんしゅう)会社(三井物産会社の前身の一つ)をおこした。1875年大阪会議を契機に元老院議官として政府に復帰。同年江華島(こうかとう)事件の特命副全権弁理大臣、1878年参議兼工部卿(こうぶきょう)、翌年外務卿、1884年の甲申(こうしん)政変後の特派全権大使などを歴任しながら、日本鉄道、日本郵船の設立や大農経営論を展開するなど殖産興業に尽力した。1885年内閣制度樹立後、第一次伊藤博文内閣の外務大臣、黒田清隆(くろだきよたか)内閣の農商務大臣、第二次伊藤内閣の内務大臣、総理臨時代理、第三次伊藤内閣の大蔵大臣などに就任した。外交面で特筆されるのは不平等条約改正のための欧化政策の採用である。1883年鹿鳴館(ろくめいかん)を建設し日夜各国公使らを招いて祝宴を張り、「鹿鳴館時代」を現出させ庶民の批判を浴びた。井上は財界との結び付きが強く、1899年には自ら有楽会(ゆうらくかい)を組織し、有力財界人との懇談の場を設けた。財界のなかでも三井との結び付きが強く、1900年(明治33)制定の三井家憲において三井家終身顧問としての地位を明記され、死去するまで三井の経営、人事に多大な影響を与えた。[春日 豊]
『井上馨侯伝記編纂会編『世外井上公傳』全5巻(1933~1934・内外書籍/復刻版・1979・原書房)』

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精選版 日本国語大辞典

いのうえ‐かおる【井上馨】
政治家。長州藩出身。幼名勇吉。通称聞多。号世外。第一次伊藤内閣の外相となり、条約改正交渉のため欧化政策をすすめる。のち、農商務相、内相、蔵相などを歴任。天保六~大正四年(一八三五‐一九一五

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