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九鬼嘉隆【くきよしたか】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

九鬼嘉隆
くきよしたか
[生]天文11(1542).志摩
[没]慶長5(1600).10.12. 紀伊
安土桃山時代の武将。定隆の次男。甥澄隆の死後,家を継いだ。右馬允,大隅守。代々志摩国内田城に住し,初めは北畠氏に仕えたが,永禄 12 (1569) 年,織田信長が北畠具教を攻めるや,信長に款を通じ,以来信長の麾下となり,水軍を率いてこれに従った。天正2 (74) 年伊勢長島の一向一揆,同5年紀伊雑賀の一向一揆を海上から攻撃し,また翌6年の石山本願寺との合戦に際しては,本願寺側の援軍である毛利の水軍と対戦してこれを打ち破った。信長の死後,豊臣秀吉に仕え,四国,九州の両役 (→四国征伐 , 九州征伐 ) ,文禄・慶長の役に際しても水軍として軍があり,鳥羽城主となり,3万 5000石を領した。秀吉の死後,徳川家康と和せず,関ヶ原戦いには,その子守隆が東軍に属したが,嘉隆は西軍に属して敗れた。戦後家康に許されたが,紀伊で自殺した。 (→九鬼氏 )

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デジタル大辞泉

くき‐よしたか【九鬼嘉隆】
[1542~1600]安土桃山時代武将紀伊の人。初め伊勢北畠氏の。のち、熊野水軍の長として、織田信長石山本願寺攻めで活躍。関ヶ原の戦いでは西軍に属し、敗れて自刃

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

九鬼嘉隆 くき-よしたか
1542-1600 織豊時代の武将。
天文(てんぶん)11年生まれ。九鬼守隆(もりたか)の父。志摩(三重県)鳥羽藩主九鬼家の。織田信長,豊臣秀吉につかえる。志摩水軍をひきいて長島の一向一揆(いっき)攻撃,朝鮮出兵などに功をたて,伊勢(いせ)・志摩に3万5000石を領する。関ケ原の戦いで西軍に属して敗れ,子の守隆が助命を嘆願していれられたが,慶長5年10月12日知らせの到着前に自害。59歳。

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世界大百科事典 第2版

くきよしたか【九鬼嘉隆】
1542‐1600(天文11‐慶長5)
安土桃山時代の武将。右馬允,大隅守と称す。志摩国田木城主宮内大輔定隆の次男。志摩波切を根拠として付近の土豪を制圧し,勢力を伸ばした。初めは伊勢国司北畠氏に属したが,永禄末年より織田信長に従い,1569年信長の北伊勢攻略の際の功により志摩一国を与えられたという。その後は,長島の一向一揆攻撃,石山本願寺攻撃等に配下の海賊衆を率いて参加,海路をふさぐなどして活躍した。信長の死後は豊臣秀吉の下で,文禄・慶長の役等に水軍の将として功をあらわした。

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大辞林 第三版

くきよしたか【九鬼嘉隆】
1542~1600 安土桃山時代の武将。大隅守。織田信長・豊臣秀吉に仕え、熊野海賊を率い、水軍の将として活躍。関ヶ原の戦いでは豊臣方に属して敗れ、自害。

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日本大百科全書(ニッポニカ)

九鬼嘉隆
くきよしたか
(1542―1600)
安土(あづち)桃山時代の武将。右馬允(うまのじょう)、のち大隅守(おおすみのかみ)。志摩国(三重県)田代(たしろ)城主宮内大輔(くないだいぶ)定隆(さだたか)の次男として志摩に生まれる。志摩七島の首領で、初め伊勢(いせ)国司北畠(きたばたけ)氏に属する。1569年(永禄12)織田信長に仕え、74年(天正2)7月伊勢長島の一向宗徒(いっこうしゅうと)攻撃のとき、大安宅船(おおあたけぶね)(50梃櫓(ちょうろ)の大型船)10余艘(そう)で攻め、78年摂津石山本願寺攻めにも50余艘の水軍を率いて活躍、のち鳥羽(とば)に築城。伊勢・志摩両国のうち3万5000石を領知。信長死後、豊臣(とよとみ)秀吉に仕え、87年の九州征伐、文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)両役には水軍の将として功績をたてた。97年(慶長2)所領3万石を子守隆(もりたか)に譲り、自らは5000石を隠棲(いんせい)料としたが、関ヶ原の戦いには西軍に属し、父子敵味方に分かれて戦った。敗北後は鳥羽湾の答志(とうし)島に隠れたが、守隆の家老の勧めで、慶長5年10月12日洞仙庵(とうせんあん)で自刃、鳥羽の常安(じょうあん)寺に葬られた。守隆による南勢五郡にかえての助命嘆願がいれられ、赦免状が鳥羽へ届く以前のことであったという。なお鳥羽市答志町和具(わぐ)には首塚がある。[原田好雄]
『中岡志州編『鳥羽志摩新誌』(1970・中岡書店)』

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精選版 日本国語大辞典

くき‐よしたか【九鬼嘉隆】
安土桃山時代の武将。鳥羽城主。定隆の子。大隅守と称する。織田信長、のち豊臣秀吉に仕え、文祿・慶長の役に水軍の将として活躍。志摩・伊勢に三万五千石を領する。関が原の戦いでは豊臣方に属して敗れ、紀伊で自刃。天文一一~慶長五年(一五四二‐一六〇〇

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