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久坂玄瑞【くさか げんずい】

美術人名辞典

久坂玄瑞
幕末の志士・長州藩士。初名は誠、名は通武のち義助、字は実甫、号江月斎、変名松野三平。明倫館に学び、吉田松陰門下となる。高杉晋作と共に松陰の双璧といわれた。尊王攘夷論を唱えて脱藩し、英国公使館焼打・下関外国船砲撃等に活躍する。元治元年(1864)歿、25才。

出典:(株)思文閣

デジタル大辞泉

くさか‐げんずい【久坂玄瑞】
[1840~1864]幕末の長州藩士。名は通武。通称は義助。吉田松陰門下。尊王攘夷急進派で、品川の英国公使館焼き討ち、下関外国艦船砲撃に参加。蛤御門(はまぐりごもん)の変で負傷し、自刃

出典:小学館
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

久坂玄瑞 くさか-げんずい
1840-1864 幕末の武士。
天保(てんぽう)11年5月生まれ。久坂玄機の弟。生家は長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩医。松下村塾にまなび,吉田松陰の妹と結婚。文久2年高杉晋作らとイギリス公使館を焼き討ちし,3年下関外国船砲撃に参加するなど,尊攘(そんじょう)運動をすすめる。禁門の変で負傷し,元治(げんじ)元年7月19日自害。25歳。名は通武(みちたけ)。通称は義助。
【格言など】諸侯恃(たの)むに足らず,公卿恃むに足らず,草莽志士糾合義挙の外にはとても策これ無し

出典:講談社
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防府市歴史用語集

久坂玄瑞
萩の医者の家に生まれ、松下村塾[しょうかそんじゅく]で学び、高杉晋作[たかすぎしんさく]と一二を争う秀才で常に攘夷の先頭にたっていました。1864年(元治元年)の禁門の変[きんもんのへん](蛤御門の変[はまぐりごもんのへん])で戦死しました。

出典:ほうふWeb歴史館
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世界大百科事典 第2版

くさかげんずい【久坂玄瑞】
1840‐64(天保11‐元治1)
幕末期長州藩の志士。名は通武,義助(よしすけ)と称する。玄瑞は号。家は藩医。吉田松陰の門下で,才を評価され,頭角を現す。1862年(文久2)公武合体路線に行き詰まった藩論が,尊王攘夷路線へ転換する際に下工作を行い,登用された。その後,御殿山イギリス公使館焼打ちや,下関外国艦隊砲撃事件に活躍したが,64年(元治1)の禁門の変に参戦し,負傷して自刃した。【井上 勝生】

出典:株式会社平凡社
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大辞林 第三版

くさかげんずい【久坂玄瑞】
1840~1864) 幕末の長州藩士。名は通武。通称、義助。吉田松陰の妹婿。松下村塾に学ぶ。藩論を公武合体から尊攘論に統一。イギリス公使館焼き打ち、下関外国船砲撃事件に加わる。禁門の変を指導して負傷、自殺した。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

久坂玄瑞
くさかげんずい
[生]天保11(1840).長州,萩
[没]元治1(1864).7.19. 京都
江戸時代末期の勤王家。長州藩士。名は通武,のち義助。吉田松陰に学び,松陰に愛されてその妹と結婚し,高杉晋作とともに松下村塾の逸材とみなされた。松陰の死後,尊王攘夷運動に丁身し,広く諸藩の志士たちとも交わった。長州藩の藩論が長井雅楽の『航海遠略策』による公武合体論に傾いたおり,文久2 (1862) 年春,脱藩上京して宮廷を動かし,藩論を尊攘論に統一するという働きもした。その後帰藩,元治1 (64) 年,真木和泉 (保臣) ,来島又兵衛らと藩兵を率い上京,入京を嘆願したが朝廷,江戸幕府にいれられず,彼は自重論を説いたが,真木らの強硬論に押され禁門の変 (蛤御門の変) の戦いに加わり,負傷して自刃した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)

久坂玄瑞
くさかげんずい
(1840―1864)
幕末の長州藩士。名は通武(みちたけ)、のち義助(よしすけ)。号は江月斎、玄瑞。容貌(ようぼう)から同志に禿頭和尚(とくとうおしょう)ともよばれた。貧禄(ひんろく)の藩医に生まれたが、国事を論ずる吉田松陰(しょういん)に師事して松下村塾(しょうかそんじゅく)に学び、高杉晋作(しんさく)の識、玄瑞の才と並び称され、松陰の妹を妻とした。やがて日米修好通商条約を締結、安政(あんせい)の大獄を引き起こした幕政を批判し、他藩の志士と交わる。長州藩が長井雅楽(ながいうた)の幕府寄りの公武合体政策、航海遠略策を採択したため、これを激しく弾劾し、1862年(文久2)には同志と長井暗殺をも企てた。このころ「尊藩も弊藩も滅亡しても大義なれば苦しからず」と述べ、尊王攘夷(じょうい)の激派の運動の先頭にたち、朝廷に入説した。攘夷督促の勅使東下には自らも江戸へ赴き、イギリス公使館焼打事件を高杉らと起こした。1863年、攘夷実行の下関外国艦隊砲撃事件に参加し、八月十八日の政変による長州藩勢力の京都追放後も京都に潜入して木戸孝允(たかよし)らとともに失地回復に努めた。1864年(元治1)、禁門の変に参加、指導部にあって自重、後続の軍を待つ作戦を主張したが、進発論に押し切られ、一軍を指揮するうちに膝(ひざ)に弾丸を受けて鷹司(たかつかさ)邸内に自刃した。[井上勝生]
『福本義亮編『久坂玄瑞全集』(1978・マツノ書店)』

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精選版 日本国語大辞典

くさか‐げんずい【久坂玄瑞】
江戸末期の長州藩士。名は通武。通称義助。吉田松陰に学ぶ。藩論を尊王攘夷に導き、江戸品川のイギリス公使館の焼打ちや下関の外国船砲撃に参加した。のち藩兵とともに上洛して禁門の変を起こし、負傷して自刃。天保一一~元治元年(一八四〇‐六四

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