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三好三人衆【みよしさんにんしゅう】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

三好三人衆
みよしさんにんしゅう
戦国時代の武将三好長慶家臣で,三好長逸岩成友通三好政康の3人をいう。長慶の死後,初め子義継を助け松永久秀らとともに,永禄8 (1565) 年足利義輝を殺害したが,のち久秀と合わず,また織田信長に抗戦し,天正1 (73) 年没落した。

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デジタル大辞泉

みよし‐さんにんしゅう【三好三人衆】
戦国末期、三好長慶部下であった三好長逸・岩成友通・三好政康の三人をいう。長慶の死後、幼主義継を擁して専権を振るったが、義継の離反織田信長の入京などにより衰退

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世界大百科事典 第2版

みよしさんにんしゅう【三好三人衆】
戦国末期の武家同族。三好長慶(ながよし)の祖父長秀の甥三好政康,同長逸(ながゆき)および長慶近臣の岩成友通の3名を指す。長慶が1564年(永禄7)病没すると,猶子義継は幼年であったのでこの3名が後見となり,松永久秀と協力して政務に当たったが,翌年5月将軍足利義輝を暗殺して以後,跡目の義栄擁立のことで久秀と絶縁,交戦状態に入った。66年久秀をに追放し,畿内をほぼ制圧したが,翌年久秀が三人衆と不和になった義継を擁して巻返しに転じ,東大寺は炎上し,奈良をはじめ河内,大和,南山城は戦乱状態となった。

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大辞林 第三版

みよしさんにんしゅう【三好三人衆】
戦国武将三好長慶の家臣であった三好長逸ながゆき・岩成友通・三好政康(釣竿斎)の三人をいう。長慶の死後、養嗣子の義継を擁して専権を振るったが、松永久秀・織田信長らと争って敗退した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)

三好三人衆
みよしさんにんしゅう
戦国期に畿内(きない)に割拠した三好政権を構成した三人の同族衆。1564年(永禄7)三好長慶(ながよし)が没すると十河重存(そごうしげまさ)(三好義継(よしつぐ))が猶子(ゆうし)として擁立されたが、政権の主導権をめぐって松永久秀(ひさひで)と三好氏一族の間に隙が生じ、とくに65年5月の将軍足利義輝(あしかがよしてる)暗殺後は分裂状態となった。そこで三好長逸(ながゆき)、三好政康(まさやす)、岩成友通(いわなりともみち)の3名は山城(やましろ)、摂津を地盤に、大和(やまと)・丹波(たんば)の松永氏と絶縁して対抗し、戦火は畿内全域に及んだ。東大寺大仏殿が炎上したのもこの争乱のときである。三人衆は将軍跡目に足利義維(よしつな)の子義栄(よしひで)を擁立し、阿波(あわ)の篠原長房(しのはらながふさ)らと呼応して三好政権を維持しようとしたが、当主義継や一族の三好康長らの離反と1568年(永禄11)の織田信長の入京、畿内制圧によりその政権は瓦解(がかい)した。[今谷 明]

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