北アメリカ大陸の南部にある連邦共和国。正式名称は「メキシコ合衆国」Estados Unidos Mexicanos。メキシコは、英語読みで、スペイン語ではメヒコ。メヒコは古代アステカ帝国の太陽と戦争の神「メシトリの大地」を意味する「メシコ」に由来する。国旗は緑、白、赤で縦に3等分され、中央の白地に、蛇をくわえた褐色の鷲
(わし)がサボテンにとまっている図柄を配した、きわめてユニークなもの。北はアメリカ合衆国、南はグアテマラとベリーズに国境を接している。西は太平洋、カリフォルニア湾、東はメキシコ湾、カリブ海に面している。北アメリカ大陸に位置しているが、カナダ、アメリカ合衆国のアングロ・サクソン文化圏とは著しいコントラストを示すラテン文化圏に属するため、中央アメリカ諸国として分類され、中央アメリカ最大の国、また南アメリカ諸国をも含めたラテンアメリカ諸国のなかでの政治的・経済的大国としての影響力が大きい。国土面積は196万7183平方キロメートルで、ラテンアメリカではブラジル、アルゼンチンに次ぐ広さ。人口は9736万1711(2000年センサス)、1億0620万2903(2005年推計)である。首都はメキシコ市(シウダー・デ・メヒコ/メキシコシティ)。
[丸谷吉男]国土は熱帯から亜熱帯地域にわたっており、山地と砂漠地帯が70%を占める。太平洋側には西シエラ・マドレ山脈、カリブ海側には東シエラ・マドレ山脈が南北に走り、両山脈に挟まれた形で標高1500メートル以上の高原地帯が国土の中央部に展開しており、気温、湿度、降水量などの点から経済活動の中心となっている。南部の熱帯地域や海岸部は高温・多湿で年平均気温18℃、北部と西部の大部分は乾燥した砂漠地帯である。
北緯19度線沿いに国土を横断する形で火山帯が走り、ポポカテペトル(5452メートル)、イスタクシワトル(5286メートル)、オリサバ(5675メートル)の高峰がそびえている。火山の噴火や地震も多い。とくに1985年9月のメキシコ大地震は記憶に新しく、死者8000人、マグニチュード8.1を記録した。いくつかの山脈に囲まれた中央高原にはさまざまな起伏があり、渓谷、盆地、湖沼が点在している。河川の多くは急流で、船舶が航行しうる部分は少なく、雨期にはしばしば氾濫
(はんらん)して被害を生ずる。メキシコの山地は貴重な鉱物資源の宝庫であるとともに、豊富な森林資源を提供している。メキシコの国土はその標高にしたがって三つに分類される。第一は熱帯地で、標高500メートル以下、平均気温は25~27℃、第二は温帯地で、標高は500~2000メートル、平均気温は21~24℃、第三は寒冷地で、標高は2000メートル以上、平均気温は18℃以下である。人口の大半は温帯地に集中しているが、それは標高差による気温の相違に適応した生活の知恵といえる。降水量は一般に不十分であると同時に不規則である。国全体の平均降水量は年間1500ミリメートルであるが、地域差が著しく、ほとんど雨の降らない広大な地域がある反面、洪水にみまわれる地方も多い。北部諸州では水資源の確保が重要課題となっている。
[丸谷吉男]メキシコの国土は、それぞれの特徴に基づいて次のように区分される。
[丸谷吉男]南・北両バハ・カリフォルニア州、ナヤリト州、シナロア州、ソノラ州からなり、国土面積の約21%、人口の8.7%を占める。砂漠・半砂漠地帯と降水量の多い沿岸地帯があるが、メヒカリ、シウダー・オブレゴン、エルモシヨ、ロス・モチスの諸都市周辺では灌漑
(かんがい)施設により綿花、小麦、豆類の生産が伸び、アメリカ合衆国に接する国境都市ティフアナなどでは「マキラドーラ」とよばれるメキシコ独特の低賃金利用型の輸出保税加工業の発展が目覚ましく、観光都市としての魅力と相まって経済発展が著しい。
[丸谷吉男]コアウイラ州、チワワ州、ドゥランゴ州、ヌエボ・レオン州、サン・ルイス・ポトシ州、タマウリパス州、サカテカス州からなり、国土面積の41%、人口の17.5%を占める。東西両シエラ・マドレ山脈および北部高原地帯からなり、砂漠・半砂漠地帯が大部分を占めるため、農耕には適せず、牧畜業が主要産業となっていたが、国境寄りのラグーナ地区やメキシコ湾岸では灌漑
(かんがい)投資が行われた結果、豊かな農業地帯となった。メキシコ第二の工業都市モンテレー、鋳造業のモンクローバ、パルプ工業のチワワの諸都市があるが、最近はシウダー・フアレスなど国境都市での輸出加工工業の発展が続いている。
[丸谷吉男]連邦区(メキシコ市)、メヒコ州、アグアスカリエンテス州、グアナフアト州、イダルゴ州、ハリスコ州、ミチョアカン州、モレロス州、プエブラ州、ケレタロ州、トラスカラ州からなり、農業、工業活動の中心地域である。国土面積の14%のこの地域に人口の50%が住んでおり、人口密度はもっとも高く、政治・経済の中心でもある。
[丸谷吉男]カンペチェ州、タバスコ州、ベラクルス州、ユカタン州、キンタナ・ロー州からなり、国土面積の12%、人口の12.3%を占める。タンピコ、ポサ・リカ、ミナティトランは石油化学工業、ベラクルス港は欧米諸国への海の玄関、カンペチェ、カルメン市は漁業基地として繁栄している。ユカタン半島はサイザル麻の世界的産地であり、パパロアパン川流域では政府の開発計画が進められ、米、サトウキビ、タバコ、バナナの産地に変貌
(へんぼう)しつつある。
[丸谷吉男]コリマ州、チアパス州、ゲレロ州、オアハカ州からなり、国土面積の12%、人口の11.3%を占める。主たる産業は農業であるが、北部太平洋岸地域にみられる輸出向け、あるいは国内市場向けの商品作物よりは、むしろトウモロコシなどを中心とする自給農業が主体である。内陸部では乾燥・半乾燥気候であり、海岸沿いやグアテマラ国境地域では熱帯・亜熱帯気候となっている。
[丸谷吉男]先住民インディオはメキシコ湾岸からオアハカ盆地にかけてオルメカ文化、ユカタン半島にマヤ文化、中央高原にトルテカ文化、アステカ文化を築き上げたが、1521年にコルテスのスペイン軍に征服され、以後1810~1821年の独立戦争までスペインの支配下に置かれた。1821年のコルドバ条約で独立を達成し、イトゥルビデの帝政を経て1824年に連邦共和国となった。1845年テキサス州併合問題を端緒とした対米戦争に敗れ、1848年のグアダルーペ・イダルゴ条約で国土の約半分を失った。ちなみに、現在のアメリカのカリフォルニア州、アリゾナ州、ニュー・メキシコ州、テキサス州はこのときにメキシコが失った領土であり、この事実はメキシコ人の根強い反米感情の大きな原因となっている。
政治的・社会的改革の試みは保守派と自由派の間の内戦を招き、やがて債務の支払い、損害賠償問題をめぐってイギリス、アメリカ、フランスの干渉を招き、1864年にフランスが皇帝に仕立てたオーストリアのマクシミリアン大公が1867年にフアレス率いるメキシコ軍によって処刑され、戦後の混乱を巧みに処理したフアレスも1872年に急死した。1876年から1910年の革命まで35年間独裁者として君臨したディアス大統領のもとでメキシコは秩序を回復し、大地主、外国資本、教会勢力、軍部に支えられたディアス体制のもとで近代化が進められ、鉱山が開発され、鉄道が建設され、メキシコ市にはパリのシャンゼリゼ通りを模したレフォルマ通りが建設されたが、そのような進歩の恩恵に浴することの少なかった農民や労働者や民族資本家の不満がやがてメキシコ革命を引き起こした。メキシコ革命の理念を具体化した1917年憲法は、土地改革、労働者の権利、カトリック教会の勢力削減、地下資源に対する国家の主権などを明記した。
カルデナス政権(1934~1940)のもとで、土地改革が推進され、メキシコ労働総連合が設立され、石油産業国有化が行われた。カマーチョ政権(1940~1946)は工業化計画に重点を置き、アレマン政権(1946~1952)は教育の普及、観光開発に力を注いだ。その後、コルティネス政権(1952~1958)、ロペス・マテオス政権(1958~1964)、ディアス・オルダス政権(1964~1970)のもとでメキシコ経済は長期にわたる高度成長を続けたが、その間に貧富の格差は拡大し、民衆の不満が高まった。1968年のメキシコ・オリンピック直前の学生暴動はその象徴的な事件であった。内務相としてこの暴動の鎮圧にあたったエチェベリーアは、大統領就任後繁栄の恩恵をあらゆる階層に配分するとして、外資規制法の制定や、国連での「国家間の経済的権利・義務憲章」の採択など革新的路線をとった(1976~1973)が、第一次石油危機や内外民間部門の反発から経済は混乱に陥った。ロペス・ポルティーヨ政権(1976~1982)は石油収入の利用に活路を求め、積極的な経済開発計画を進めたが、その開発資金の多くを外国借款に依存したため、対外債務の膨張を招き、国際金利の上昇、石油価格下落の衝撃を吸収できず、史上最大の経済混乱のなかで退陣した。デラマドリ政権(1982~1988)は石油価格の大幅な下落による「逆オイル・ショック」、巨額の対外債務の処理、メキシコ大地震、首都郊外でのガス爆発事故など相次ぐ困難にもかかわらず、合理性に基づく政策運営を続けることにより難局に対処したが、十分な成果をあげるに至らぬまま、1988年自分と同じテクノクラート出身の企画予算相サリナスCarlos Salinas de Gortari(1948― )に政権をゆだねた。サリナス政権(1988~1994)は規制緩和の推進、NAFTA
(ナフタ)(北米自由貿易協定)の締結などで成果をあげた。しかし与党次期大統領最有力候補コロシオLuis Donaldo Colosio Murrieta(1950―1994)暗殺事件、チアパス州での農民の生活向上を求めるサパティスタ民族解放軍(EZLN)の武装蜂起
(ほうき)などが発生、社会不安が増大した。1994年の選挙でセディジョErnesto Zedillo Ponce de Le

n(1951― )が当選しセディジョ政権(1994~2000)が誕生したが、前政権のときからの政情不安、貿易収支悪化、為替
(かわせ)政策の失敗により資本逃避が止まらず、外貨準備高が激減、深刻な通貨危機(テキーラ・ショック)に陥った。アメリカ、カナダ、IMF(国際通貨基金)などの緊急支援により財政再建したが、所得減少や失業者増加、与党幹部の腐敗への不満が高まり、1997年の選挙では1929年以来政権を独占してきた制度的革命党(PRI)が下院で初めて過半数割れした。2000年の選挙では国民行動党(PAN)のフォックスVicente Fox Quesada(1942― )が当選し、71年間続いたPRIの一党支配は終了した。フォックス政権(2000~ )は、民主主義強化、所得格差是正などに取り組んでいるが、少数与党のため改革は難航している。
[丸谷吉男]1910年に独裁者ポルフィリオ・ディアスを打倒したメキシコ革命の理念と精神は1917年憲法に盛り込まれ、その後のラテンアメリカ諸国の憲法に影響を及ぼすとともに、部分的な改正を重ねて現在に至っている。議会制の三権分立、連邦制を中心とする共和国を政治体制とする。国家元首は大統領で、6年を任期とし、国民投票で選出されるが、再選は禁止されている。立法府は二院制で、上院は連邦区と31の州から4名ずつ選出される任期6年の議員128名で構成される。下院は500議席で、そのうち300議席は連邦区と31の州から選出され、残り200議席は得票数に比例して野党に配分され、任期は3年である。国会の会期は9月1日から12月31日で、初日に大統領が発表する年次教書は重要事項を網羅する情報源である。大統領の権限はオールマイティといえるほど強大であり、閣僚の任命権、州知事の罷免権、両院を通過した法案に対する拒否権をもつ。軍部に対しても文民優位が確立されている。司法権は連邦裁判所に属し、最高裁によって統轄され、最高裁判事は大統領の任命により、上院の承認を必要とする。高等裁判所は12、地方裁判所は68ある。
地方行政では、連邦区と首都とその周辺の31の州に分けられ、それぞれ憲法と代議制の政府をもつ。行政権は直接選挙で選ばれる任期6年の州知事に属し、立法権は州議会、司法権は州最高裁に属する。
[丸谷吉男]与党の国民行動党(PAN)のほかに、野党として制度的革命党(PRI)などが下院に議席をもつが、その多くは野党育成政策の一環としての比例代表制によるものである。PANは1939年に結成され、北部の工業都市モンテレーの財閥や教会を基盤とする保守政党であるが、最近は都市の新中間層に勢力を拡大し、上院46、下院148議席をもつ。2000年の大統領選挙で勝利し与党となった。PRIは1929年に結成された民族革命党(PNR)が二度改称したもので、2000年まで政権を独占してきた。労働者、農民、一般人の三部会制をとり、全組織労働者の約90%を占めるメキシコ労働総連合(CTM)、全国農民連盟(CNC)、全国一般人組織連合(CNOP)などを基盤とするが、最近はテクノクラート(技術管理職者)を中心とする一般人部会の発言力が強い。PRIは上院58議席、下院223議席をもつ。民主革命党(PRD)は、メキシコ・ナショナリズムの記念碑ともいうべき石油国有化を断行したラサロ・カルデナスの2世を中心とする左派政党で、1988年の大統領選挙ではサリナス候補を追いつめる躍進をみせた。1990年代に入って退潮を続けていたが2003年の下院選挙では議席数を増やし、上院15、下院97議席をもつ。労働党(PT)はかつての労働運動の闘士トレダーノの影響力も弱まり、下院に6議席をもつのみとなった。ほかに緑の環境党(PVEM)があり、上院5、下院17議席をもつ(2005)。
[丸谷吉男]メキシコは独立後もフランス、アメリカなど先進諸国の干渉に悩まされた経験に基づき、内政不干渉、民族自決、紛争の平和的解決、反植民地主義、国家の法的平等の原則を外交政策の基調としてきた。1970年代には石油危機を契機として高まった資源ナショナリズムを背景に、第三世界のオピニオン・リーダーとして行動し、1983年ベネズエラ、コロンビアとコンタドーラ・グループ(3か国蔵相会議)を結成し、中米和平の実現への協力、史上初の南北サミットの開催、中米・カリブ諸国への石油の安定供給などによって影響力を高めた。「カリブ海の赤い星」といわれたキューバとは一貫して友好関係を続けた。セディジョ政権(1994~2000)は、(1)戦略的関心のある国との関係の緊密化、(2)国家の目標に適し、地球規模の問題の解決に資する国際機関、地域機関への積極的参加、(3)開発のための手段としての国際協力の促進の三つを中心に、対米関係を成熟したものとし、APEC(アジア太平洋経済協力)に加盟し、日本、中国、韓国、シンガポールとの関係を深めた。またラテンアメリカでは南米南部共同市場(MERCOSUR
(メルコスール))、カリブ諸国連合との関係を強化する一方で、チリ、コロンビア、ベネズエラ、コスタリカ、ボリビアとの自由貿易協定締結に尽力し、ヨーロッパ連合(EU)やヨーロッパ自由貿易連合(EFTA)との間でもFTAを締結した。フォックス政権(2000~2006)では従来の外交政策を踏襲しつつ、さらに国際政治の舞台において積極的な役割を果たす方針で、2002~2003年国連安全保障理事会の非常任理事国を務めたほか、2002年APEC首脳会議開催、2003年世界貿易機関(WTO)閣僚会議開催、2005年非核地帯会議開催などを行った。一方、従来からの親米路線はフォックス政権になってから強くなり、友好関係を続けてきたキューバとの関係は縮小方向にある。ただしアメリカのキューバ経済制裁強化法には反対している。アメリカとの関係では、不法移民問題(在米メキシコ人不法移民は約480万人)、麻薬密輸取締問題など課題は多い。
[丸谷吉男]メキシコの軍部は歴代の文民政権の周到な政策により、ラテンアメリカでもっとも非政治的な集団となっており、クーデターの可能性も少ない。北の隣国アメリカは強大すぎて戦争の恐れはなく、南の隣国グアテマラは弱小であり、キューバとは一貫して友好的であるため、軍の肥大化が抑止されてきた。しかし、1994年初めのチアパス州の農民武装蜂起
(ほうき)、1996年の革命人民軍(EPR)のゲリラ活動、麻薬組織との対決などを契機に、国内治安に占める軍の役割が拡大している。2005年の兵力は陸軍14万4000人、海軍3万7000人、空軍1万1770人で、2005年の軍事予算は国内総生産(GDP)の0.4%となった。
[丸谷吉男]1910年に始まったメキシコ革命は、革命軍指導者の間の権力闘争のためにメキシコを十数年にわたる内戦状態に陥れ、経済・産業を疲弊させたが、1929年の世界恐慌は事態をさらに悪化させた。カルデナス大統領(在任1934~1940)は石油の国有化、農地改革など革新的政策を推進し、対米関係を悪化させたが、第二次世界大戦の勃発
(ぼっぱつ)は石油などの戦略物資供給国としてのメキシコの立場を優位にした。大戦中、メキシコは連合国への戦略物資輸出で多額の外貨を獲得する一方で、輸入できなくなった工業製品を国産化する「輸入代替工業化」を推進し、大戦終了時には農業国から工業国へと脱皮した。
その後1970年まで、メキシコ経済はインフレのない高度成長、通貨の安定を実現し、「メキシコの奇跡」として注目された。しかしエチェベリーア政権(1970~1976)の外資規制法の制定、第三世界外交、ナショナリズム高揚などが内外民間資本の反発を招き、そのうえ1973年の第一次石油危機に伴う混乱も加わり経済が停滞を続けたため、政府は対外債務を導入し、公共部門主導による経済再建を目ざした。その結果、対外債務の急増が通貨不安を高めることになり、任期末の1976年8月には22年ぶりの通貨暴落に追い込まれ、経済危機が深まった。
ロペス・ポルティーヨ政権(1976~1982)はこの戦後最大の経済危機を乗り切るために従来の石油政策を転換し、石油輸出収入の拡大による経済再建を目ざし、国家工業開発計画、国家エネルギー計画、四大臨海港開発計画など多面的な開発計画を展開したが、資金の多くは外国銀行の借款に依存した。そのため、1982年6月の原油価格の反落は国際金利の上昇、農業不振による食糧輸入の急増、公共部門の非効率、財政赤字の拡大などと相まって、1982年8月の金融危機をもたらした。
近代メキシコ史上最大の危機のさなかに発足したデラマドリ政権(1982~1988)は若手テクノクラートの登用、国際金融機関との協調、民間部門との対話、国有化した銀行への補償、公務員の綱紀粛正などにより1984年には経済の立て直しに成功し、対外債務についても多年度一括再編成を達成した。しかし、1985年の石油価格急落による「逆オイル・ショック」とメキシコ大地震はふたたびメキシコ経済を大混乱に陥れた。
史上最低の得票率でかろうじて当選したサリナス大統領(在任1988~1994)は、(1)政府、経営者団体、労働団体、農民組織の間の対話路線の確立、(2)経済活動に対する規制の緩和、(3)国営企業の民営化、(4)貿易の自由化、(5)外国投資の自由化、(6)対外債務問題の積極的処理、(7)NAFTA
(ナフタ)(北米自由貿易協定)の締結などの面で成果をあげ、「サリナス革命」として注目されたが、NAFTA発足当日の1994年1月1日に起こったチアパス州での農民の反政府武力闘争、次期大統領の最有力候補であったコロシオ候補の選挙運動中の暗殺、与党幹事長暗殺など、政治、社会面の不祥事が外国資本に不安を与えた。
与党のコロシオ候補が選挙戦のさなかに暗殺され、急拠後継候補に指名され、当選したセディジョ大統領(在任1994~2000)は就任直後の1994年末に為替
(かわせ)政策を誤り、短期に外国資本が大量に流出したために通貨危機に陥り、その「テキーラ・ショック」はまたたくまにラテンアメリカ諸国、南欧諸国、アジア諸国に広まり、日本もまた1ドル=79円という超円高に襲われた。セディジョ政権はアメリカ、カナダ、世界銀行、IMF(国際通貨基金)の緊急支援を背景に新自由主義経済路線を推進し、約2年間でメキシコ経済を再建した。しかし通貨危機の影響等による国民所得の減少・失業者の増加、不正選挙や汚職問題などで国民の不信感は高まり、1997年の選挙で1929年以来政権を独占してきた制度的革命党(PRI)は下院で初めて過半数割れした。
2000年の大統領選挙では野党の国民行動党(PAN)のフォックスが当選し、政権交代を実現した。フォックス大統領(在任2000~ )は前政権に引き続きマクロ経済政策を実施。アメリカの景気に左右されてはいるが、比較的安定した経済運営を行っている。しかし、税制・金融・エネルギーなど各部門の構造改革は難航し、緊縮財政を強いられている。
[丸谷吉男]