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マーラー

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

マーラー
Mahler, Gustav
[生]1860.7.7. ボヘミア,カリシュト
[没]1911.5.18. ウィーン
オーストリアの作曲家,指揮者。ユダヤ系の商人の子に生れ,ウィーンの音楽院と大学で学んだ。 1888年からブダペストハンブルクの劇場の楽長を経て,97年ウィーン国立歌劇場監督,98年ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の指揮者となった。 1907年ユダヤ人排斥のため辞任。のちアメリカに招聘され,ヨーロッパとアメリカを往復しながら,民族的な旋律基調に独自の作風を築いた。主作品は9曲の交響曲と,中国のをドイツ語訳した歌詞をもつ交響曲『大地の歌』 (1908) ,自作の詩による歌曲さすらう若人の歌』 (1884) ,『亡き子をしのぶ歌』 (1902) など。

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デジタル大辞泉

マーラー(Gustav Mahler)
[1860~1911]オーストリアの作曲家・指揮者。後期ロマン派に属し、作品は標題的性質色彩豊かな管弦楽法をもつ。作品に、9曲の交響曲のほか曲「亡き子をしのぶ歌」など。

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世界大百科事典 第2版

マーラー【Gustav Mahler】
1860‐1911
ドイツ,オーストリアを中心に活躍した作曲家,指揮者。ボヘミア地方のユダヤ人の家系に生まれる。彼の音楽家としての活躍時期は,F.リスト,R.ワーグナーのそれとわずかに交差し,また生涯の後半はウィーンにおける若いA.シェーンベルクの活動と重なり合う。そのように彼はロマン主義の最後の時代を生きた音楽家でH.P.J.ウォルフR.シュトラウスらと同じ世代に属する。ウォルフはウィーン音楽院における同期生であり,R.シュトラウスとは,生涯を通じて互いの作品上演に協力し合う間柄であった。

出典:株式会社平凡社
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大辞林 第三版

マーラー【Gustav Mahler】
1860~1911 オーストリアの作曲家・指揮者。ワグナーの音楽に影響をうけ、交響曲と歌曲に独自の世界を開拓。歌劇場の指揮者としても活躍。歌曲集「少年の魔法の角笛」「さすらう若人の歌」「なき子をしのぶ歌」、交響曲「復活」「大地の歌」など。

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日本大百科全書(ニッポニカ)

マーラー
まーらー
Gustav Mahler
(1860―1911)
オーストリアの作曲家、指揮者。当時オーストリア帝国に統治されていたボヘミアの寒村カリシュトの、酒造業を営むユダヤ人の家庭に7月7日、14人中の第2子として生まれる。一家はグスタフ出生の年にイーグラウ(現チェコのイフラバ)の町に移り住む。4歳ごろから音楽の才能を示し始めたグスタフは、このドイツ文化の影響の強い町で音楽修業を始め、フランツ・シュトルムらにピアノを学ぶとともに、民謡や軍楽隊の音楽にも親しんだ。1869年イーグラウのギムナジウムに入学、翌年(10歳)最初のピアノ・リサイタルを開き、プラハに赴き音楽の学習を続けた。75年ウィーン音楽院に入学、ピアノをユリウス・エプシュタイン、和声学をロベルト・フックスに学び、さらにウィーン大学でブルックナーの和声学の講義を聴講した。78年、ピアノ三重奏曲で1等賞を獲得してウィーン音楽院を卒業、以後ピアノの家庭教師などをしながら作曲を試み、80年(20歳)最初の大作、独唱・合唱と管弦楽のための『嘆きの歌』を完成、ベートーベン・コンクールに応募したが、ブラームスやリヒターに認められず落選した。
 1880年から83年にかけて、マーラーは指揮者としての活動を始め、バート・ハル、ライバッハ(現スロベニアのリュブリャナ)、オルミュッツ(現チェコのオロモウツ)の地方歌劇場で指揮者を務めた。さらに、カッセル(1883~85)、プラハ(1885~86)、ライプツィヒ(1886~88)、ブダペスト(1888~91)などの歌劇場で活躍、ワーグナーとモーツァルトを得意のレパートリーとする指揮者として名声をあげていく。この間に交響曲第1番(1889初演)を作曲。91年ハンブルク市立歌劇場の首席指揮者に就任、理想的な歌手たちとワーグナーの作品を上演するとともに、ハンブルク管弦楽団のステージにおいても数々の交響曲を手がけ、その演奏はハンス・フォン・ビューローに賞賛された。この時期から作曲家としての活動も本格化し、93年の夏以来、シュタインバッハのアッター湖畔の作曲小屋で、交響曲第2番「復活」(1895初演)、同第3番(1902初演)が生まれた。97年にはウィーンに出て、ウィーン宮廷歌劇場、ウィーン・フィルハーモニーの各首席指揮者となり、ワーグナーとモーツァルトの作品を中心に、斬新(ざんしん)な演出と舞台装置によってオペラ上演にあたり、大指揮者の地位を不動のものにした。
 1902年、若い無名の作曲家アルマ・シントラー(1879―1964)と出会い、翌年結婚。彼女の助力を得て創作意欲が燃え上がったマーラーは、ベルター湖畔のマイヤーニッヒに作曲小屋をつくり、交響曲第6番「悲劇的」(1906初演)、同第7番「夜の歌」(1908初演)、同第8番「千人の交響曲」(1910初演)の大作を次々に完成した。07年、反ユダヤ主義の勢力に攻撃されたマーラーは、愛する長女マリア・アンナがジフテリアで夭折(ようせつ)したこともあって、ウィーン宮廷歌劇場を去る決意を固め、同年12月ニューヨークに渡った。
 それ以後最晩年に至るまで、マーラーはメトロポリタン歌劇場およびニューヨーク・フィルハーモニーの指揮者として演奏活動を行った。そのかたわら、シーズン・オフの春から夏にかけては毎年ヨーロッパに戻り、イタリア国境に近いトブラッハの山荘で、晩年の傑作、6楽章の独唱付き交響曲「大地の歌」(マーラー死後の1911年、ブルーノ・ワルター指揮で初演)、交響曲第9番(1912初演)、同第10番(未完成、1924初演)が生まれた。こうして5回にわたり二大陸を往復したマーラーは体調を崩し、1911年2月21日、ニューヨーク・フィルのコンサート後に倒れ、連鎖状球菌性の咽喉(いんこう)カタルの療養をするため、パリ経由でウィーンに戻ったが、同年5月18日、51歳の誕生日を待たずに世を去った。
 マーラーの10曲に及ぶ交響曲は、ウィーン古典派の伝統に基づくとともに、その伝統を新しい角度から見直して斬新な音楽的世界を開拓し、シェーンベルクらの新ウィーン楽派への道を切り開いた。[船山信子]
『アルマ・マーラー著、酒田健一訳『グスタフ・マーラー――回想と手紙』(1973・白水社) ▽M・ケネディ著、中河原理訳『グスタフ・マーラー――その生涯と作品』(1978・芸術現代社) ▽E・クルシェネク、H・F・レートリヒ著、和田旦訳『グスタフ・マーラー』(1981・みすず書房) ▽M・ヴィニャル著、海老沢敏訳『マーラー』(1985・白水社) ▽H・A・リー著、渡辺裕訳『異邦人マーラー』(1987・音楽之友社) ▽柴田南雄著『グスタフ・マーラー――現代音楽への道』(岩波新書) ▽船山隆著『マーラー』(新潮文庫)』

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精選版 日本国語大辞典

マーラー
(Gustav Mahler グスタフ━) オーストリアの作曲家、指揮者。ワグナーの影響を受ける。後期ロマン主義の代表的作曲家。代表作は、第一(巨人)、第八(千人の交響曲)・第九の交響曲や、歌曲「亡き子をしのぶ歌」など。(一八六〇‐一九一一

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