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ボルツマン

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

ボルツマン
Boltzmann, Ludwig Eduard
[生]1844.2.20. ウィーン
[没]1906.9.5. トリエステ近郊
オーストリアの物理学者。ウィーン大学に学び,1866年学位取得。グラーツ大学,ミュンヘン大学,ウィーン大学の教授を歴任。 72年気体分子運動のマクスウェル分布を修正 (→マクスウェル=ボルツマン分布 ) ,H定理により熱現象の非可逆性を証明。 77年エントロピー増大は分子運動の確率的性質によることを明らかにし,エントロピーを状態確率の関数として表わした。これらの業績によって統計力学の開拓者とされている。 J.シュテファンが実験的に得た黒体放射の4乗則に,84年熱力学的証明を与えた (→シュテファン=ボルツマンの法則 ) 。原子論者であったボルツマンは,反原子論の立場に立つエネルギー一元論者 (F.オストワルトら) との論争のなかで,みずから命を絶った。

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デジタル大辞泉

ボルツマン(Ludwig Boltzmann)
[1844~1906]オーストリアの理論物理学者気体分子運動論を研究し、エントロピーの増大は単なる力学的法則ではなく確率的法則であることを明らかにして、統計力学の基礎を作った。

出典:小学館
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世界大百科事典 第2版

ボルツマン【Ludwig Boltzmann】
1844‐1906
オーストリアの理論物理学者。ウィーンの生れ。ウィーン大学に学び,1866年に卒業後2年間J.シュテファンの助手をつとめる。グラーツ,ウィーン,ミュンヘンの各大学教授をへて,94年以後はシュテファンの後任としてウィーン大学理論物理学教授,1903年には病気で退職したマッハの後任として同大学哲学教授を兼ねた。生涯の大部分を気体運動論の完成と統計力学の基礎づけに費やした彼は,1866年の学位論文で,多原子の衝突観点から熱力学の第2法則を論じ,その存在を力学的に証明,力学的表式を得た。

出典:株式会社平凡社
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大辞林 第三版

ボルツマン【Ludwig Boltzmann】
1844~1906 オーストリアの物理学者。熱現象の不可逆性を力学的に証明することに努めた。気体運動に関し状態関数を決定するボルツマン方程式を定義。エントロピー概念を状態確率の関数としてとらえる統計力学的定式化に成功した。また量子論への端緒を開いた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)

ボルツマン
ぼるつまん
Ludwig Boltzmann
(1844―1906)
オーストリアの物理学者。とくに気体論の研究で知られ、統計力学の基礎を築いた一人として著名である。帝室財務書記官の子としてウィーンに生まれ、少年期をウェルス・リンツで過ごし、ウィーン大学で物理学を修め、シュテファンらに接した。1866年に同大学を卒業後、シュテファンのもとで助手となり、1867年に学位を取得、翌1868年グラーツ大学教授となった。その後、一時期をハイデルベルクのブンゼンとケーニヒスベルガーLeo Knigsberger(1837―1921)のもとで、またベルリンのキルヒホッフとヘルムホルツのもとで客員として過ごしたが、1873年ウィーン大学を皮切りに、グラーツ、ミュンヘン、ライプツィヒの各大学の教授を歴任、最後はウィーン大学に落ち着き、没年までその職にあった。その学識は該博で、グラーツでは初め数理物理学を、のちに実験物理学の講座を担当、ミュンヘンでは理論物理学を、ウィーンでは物理学のほか哲学の講義をも行った。その講義は「水晶のように明晰(めいせき)であった」と評されている。
 彼の研究はきわめて広範囲にわたっているが、その主題は理論物理学、とくに古典力学と原子論的観点からの熱理論の展開と推進であった。マクスウェルが開拓した気体分子運動論を発展させ、熱平衡状態でマクスウェル分布が実現することの厳密な力学的証明を与えることに努力し、分布関数の時間的変化を与えるボルツマン方程式をたてた。これによっていわゆるマクスウェル‐ボルツマン分布の基礎づけが確立したが、さらにこれを手掛りに熱現象の不可逆性の力学的証明を追究し、ついにH定理を示して不可逆性を証明した(1872)。そしてこれに関連して可逆性の反論(ロシュミット)や再帰性の反論(ツェルメロ)など厳しい困難が指摘されると、それに答えるべくH定理の物理的意味を考究し、やがてエントロピーの増大は単なる力学的法則ではなく確率的な法則であるという解釈に達し、その確率的な意味を明らかにするとともに、エントロピーを状態確率の関数として定義づけた(1877)。有名なS=klogW(Sはエントロピー、Wは状態確率、kはボルツマン定数)の式である。この式の根底には、系の微視的状態がすべて等しい先験的確率をもつという仮定がある。そしてこれは、その背景としていわゆるエルゴード仮説(任意の位相軌道はエネルギー一定の面上、すべての点を通過するという仮説)と密接に関連している。1871年にボルツマンが導入したこの仮説は、統計力学の成立への重要な貢献となった。そしてこれらの結果を粘性、拡散などの具体的問題に適用する面でも精力的に研究活動を行った。
 他の分野でも、マクスウェル電磁気学の検討、誘電率と透磁率の測定による伝播(でんぱ)速度のチェック、弾性余効の研究などがあり、とりわけ放射エネルギーの温度依存性(4乗に比例)の理論的導出(シュテファン‐ボルツマンの法則)は重要である。これはやがて熱輻射(ねつふくしゃ)論の展開のうえで大きな役割を果たすものとなった。方法論的には原子論の立場を推進、擁護したことでも有名で、当時きわめて盛んであったエネルゲティークの人々――その代表者にはマッハ、オストワルト、デュエムPierre-Maurice-Marie Duhem(1861―1916)、ヘルムGeorg Helm(1851―1923)らの人々が数えられるが――と論争した。エネルゲティークは、実証主義哲学を背景に現象論的記述をもって自然科学の課題とみなし、そのためにはエネルギーを普遍概念として用いるべきであると主張し、「仮想的」である原子、したがってそれに基礎を置く気体運動論をも激しく論難したものであった。1895年のリューベック会議での論争などは著名である。ボルツマンは原子論の立場を徹底して擁護し「最後の原子論者」などとよばれたという。この論争を通じてボルツマンが述べた「エネルギーにも原子がありうる」ということばは、後のエネルギー量子化を暗示した先見性であったとする評者もある。
 晩年神経症を患い、ライプツィヒ時代にも一度未遂に終わったが、結局1906年避暑地ドウィノで自ら生命を絶った。自殺の原因は明らかではないが、原子論論争と無関係ではなかったようである。そして彼の死の直後に、ブラウン運動により、原子の存在の実験的確証が与えられたのも歴史の一つの皮肉であろう。[藤村 淳]
『ブローダ著、市井三郎・恒藤敏彦訳『ボルツマン』(1957/新装版・1979・みすず書房)』

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